プロフィール
出雲国(島根県)の戦国大名。
一代で山陰山陽を制圧し、巨大な尼子帝国を築き上げた。
配下の毛利元就が大内氏に帰属し、経久の三男は謀叛を起したが依然尼子帝国は巨大のまま。八〇歳で隠居して孫の晴久を後見。晴久が経久の反対を押し切って、毛利討伐の軍令を下す――!
享年84(1458-1541)。
詳細
1.守護・京極氏の臣
尼子氏(あまごし)は、「あまこ」とも読み、宇多源氏。近江(滋賀県)守護・京極高秀の子・高久が、近江滋賀県犬上郡甲良(かわらの)荘尼子郷(滋賀県同郡甲良(こうら)町)に住して、尼子氏を称しました。
京極氏が近江・飛騨(岐阜県)のほか出雲守護も兼ねていたことから、高久の子・持久が出雲守護代として下向。以後、月山富田(がっさんとだ)城により、一族家臣として京極氏を支えました。
応仁・文明の乱のころには持久の子・清定が出雲平定につとめ、清定嫡男の経久は文明一〇年(1478)二一歳の時に家督を継ぎ、出雲守護代となりました。
同一六年(1484)経久二七歳の時、寺社の税を納めず勝手な振る舞いがあったため、室町幕府の命を受けた出雲・隠岐・飛騨・近江の守護・京極政経(まさつね)から、居城の月山富田城から追放されました。しかし二年後に京極政経が死去すると経久が事実上、出雲の守護となりました。
2.巨大な尼子帝国へ
領土を拡大し、山陽(中国地方南部)の大内氏とも戦い、永正一五年(1518)長男・政久二四歳が戦地で死去しましたが、最盛期には現在の鳥取島根から岡山広島、兵庫あたりまで制圧したと言われています。
しかし配下の毛利元就が大内氏に帰属し、三男・興久(おきひさ)が謀叛。それでも尼子氏の勢力は依然として巨大でした。尼子氏は行政組織的に強固だったわけでなく、経久の人々の心を引きつける強い魅力で束ねられていました。
3.吉田郡山(こおりやま)城の戦い
天文六年(1537)経久八〇歳は隠居して孫の晴久を後見。晴久二七歳は経久の反対を押し切って、同九年(1540)毛利討伐の軍令を下しました。謀計の元就といってもその寡兵をもって、巨大な尼子勢に真正面から挑むことは不可能。かくして元就四四歳は、主家の大内氏との連合で尼子勢を撃退。(吉田郡山城の戦い)
経久は病床の中、有終の美を飾るはずでしたが、その年の一一月、月山富田城で八四歳の生涯を閉じました。経久死後、尼子氏は急速に衰えていきました。
尼子十勇士
永禄九年(1566)月山富田城が毛利氏の手に落ちました。山中鹿之助は、経久の血を引く還俗していた尼子勝久を擁し、尼子の旧臣らに呼びかけ限りなく不可能な尼子の再興を目指しました。
かくして執拗に毛利に戦いを挑み、天正五年(1577)羽柴秀吉の中国攻めに従い播磨上月(こうづき)城に入るも、毛利に攻められ落城。主君勝久は戦死、鹿之助は翌年死罪となりました。
尼子経久 相関図
尼子氏
- 曾祖父:高久。守護・京極高秀の三男。尼子氏始祖。
- 祖父:持久。出雲守護代。
- 父:清定、母:馬木上野介(まきこうずのすけ)の娘。
- -:経久。妻は吉川氏一一代・経基の娘。
- 長男:政久、次男:国久(-誠久-勝久)、三男:興久。
- 孫:晴久。政久の子。
- 曾孫:義久。晴久の子。尼子氏滅亡。>>堀尾氏
ライバル
参考文献
- 小和田哲男「尼子氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)93-94頁
- 国史大辞典編集委員会 『国史大辞典1』(吉川弘文館、1979年)
- 『戦国覇王』戦国大名篇(デル・ブラド・ジャパン社、2002~2003年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「尼子経久」194頁
- 今村実「尼子経久」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)204頁