プロフィール
元祖 京都所司代。織田信長の側近。
建設会社「信長組」代表、みたいな人物。
足利義昭将軍邸(二条城)、禁裏の修復、信長の二条新邸などを造営。
しかし信長は義昭を京へ追放、二条新邸は誠仁親王に献上してしまう。
もう一人の所司代とも言うべき明智光秀は信長に反旗を翻(ひるがえ)す――!
詳細
1.義昭将軍邸
村井貞勝は、父、出身地、生年もよくわかっていません。
然しながら織田信長の側近であり、宣教師のルイス・フロイスは「都の総督」「尊敬すべき老年の異教徒」と呼びました。
永禄八年(1565)将軍足利義輝が松永久秀たちに殺され、義輝弟の足利義昭は近江、若狭、越前と流浪の日々を送っていました。
信長は上洛するに将軍の権威が必要だったので、義昭を将軍職に就けました。しかし将軍となった義昭にはまだ住まいがなく、信長より貞勝は将軍御所・二条城を造営すべく任されました。
その造作は見事なもので、御殿は金銀で装飾、庭は各地の名石・名木を集めさせて造営されたと言います。現存の二条城は徳川家康の宿舎として造営され、義昭将軍御所・二条城とは位置が異なります。
2.天下所司代
義昭と信長の関係は次第に悪化して、天正元年(1573)信長が義昭を京から追放。貞勝(四六歳?)は天下所司代(のちの京都所司代)に任命されました。
所司代(しょしだい)はもともと室町幕府の職名で、京都の警衛や裁判にあたった役所が侍所で、その長官を所司と言いました。応仁の乱(1467~七七)以降に廃絶したようで、百年近くなって復活した格好になりました。
貞勝は所司代として朝廷との交渉、禁裏(天皇の住居)の普請、京都の治安維持等を任せれてました。
3.禁裏の修復
戦国時代の朝廷は、経済的にとても困窮していました。
上洛を果たした信長は、正親町(おおぎまち)天皇から勅命を受けて、織田の経済力をもって天皇の住まいである禁裏(きんり)を修復することにしました。
織田側のメリットとしては、こちらの正義を諸国に示すことができます。貞勝は永禄一三年(1570)二月より禁裏修復を開始。
禁裏修復作業中には、天皇はじめ公家や女官など朝廷側の繋がりが自然にできました。この繋がりは以降、京都所司代として朝廷と信長との連絡役、交渉役として活躍する貞勝の財産となりました。
4.信長の二条新邸
信長は以前、義昭に京に頻繁に訪れるのに邸宅がないのも不便なので、邸宅を造ることを勧められました。当然のごとく貞勝が普請を担当。しかし義昭と信長が不仲になり政治的不安定で、完成しなかったようです。
天正四年(1576)二月信長は居城を安土城へ移しましたが、京には邸宅がないまま。京に訪れた際は、その都度相国寺や妙覚寺を宿所として使っていました。
同年貞勝は、信長の二条新邸を造営。今度は完成しましたが同七年一一月信長はあっさり、誠仁親王に献上しました。
5.本能寺の変
所司代は貞勝一人でしたが、貞勝は頻繁に明智光秀と組んで京都や朝廷対策等に従事していました。
然しながら同一〇年六月、光秀が反旗を翻(ひるがえ)し、本能寺の変を知った信忠と貞勝は、誠仁親王の御所である二条御所に――かつて自分が普請を担当した建物に入りました。貞勝は「親王は退去されるべきだ」と信忠に進言し、親王一族は難を逃れましたが、貞勝は信忠と討死にしました。
所司代としての貞勝が行った職務は、幕府の京都所司代板倉勝重のモデルとなり、江戸時代に脈々と引き継がれていきました。
村井貞勝 相関図
村井氏
- 父母:不明
- 子:貞成、清次、新右衛門ほか