目次
プロフィール
信濃源氏・村上氏当主。葛尾(かつらお)城主。幼名は武王丸。
甲斐の武田信玄が信濃への進攻が始まり、他の信濃の武将が次々と倒されるなか、上田原にて武田軍を撃破。武田方の板垣、甘利らが戦死した。
二年後、再び武田軍が攻めてくるも、葛尾城の支城・砥石(といし)城(上田市)でこれを撃退。
しかし転んでもただは起きぬ信玄に対し、二度の勝利がかえってアダとなる――!?
詳細
1.信濃村上氏
村上氏は清和源氏の流れをくむ、信濃国更科郡(現長野県埴科郡)村上郷において鎌倉時代から続く武家。
その村上氏当主・義清は(埴科郡)葛尾(かつらお)を居城にして、信濃六郡に威勢を張っていました。
天文一一年(1542)以降、甲斐国(山梨県)の武田信玄は信濃への進攻を開始。義弟の諏訪頼重、その一族の高遠頼継を滅ぼして伊那郡を制圧しました。
2.上田原の戦い
同一七年(1548)二月、一万余の武田軍が小県(ちいさがた)郡に侵入してきたとき、義清四六歳は七千の兵を率いて上田原(うえだはら)で撃破しました。このとき武田方の板垣信方、甘利虎泰、初鹿野(はじかの)伝右衛門らが戦死、信玄二八歳も負傷しました。
七月に信濃国守護で深志(松本)城主の小笠原長時は、筑摩郡塩尻峠で戦いましたが信玄に敗退しました。
3.砥石くずれ
二年後の同一九年(1550)九月、信玄は五〇〇〇の兵を率いて、葛尾城の支城・砥石(といし)城(上田市)を攻撃しました。
砥石城は山城の堅城で、武田軍が手間取っている間に義清が六〇〇〇の手勢を率いて救援に駆けつけ激突。不利な合戦を強いられた武田軍は、横田高松らの将、兵一二〇〇ほど失い大敗しました。
のちに砥石くずれと呼ばれるこの戦いで、再び敗北した信玄は義清配下の将たちの切り崩し工作を真田幸隆(昌幸父)に命じ、水面下で義清の勢力を削ぐことに腐心。義清は上田原と砥石での勝利により、かえって信玄の動きを見抜けずにいました。翌年、砥石城は武田方の真田幸隆に落とされました。
4.川中島の戦いへ
同二二年(1553)には葛尾城も攻略され、窮地に追い込まれた義清は小笠原長時と同様に 上杉謙信を頼りました。これら武将の希望で謙信は出兵。
これが一二年間、五度に渡る川中島の戦いの発端でしたが、信玄に北信濃を奪われては、越後と国境を接するも謙信も他人ごとではなかったのでした。
信玄・謙信の両者が長年に渡り争っている間に、信長は着実に天下統一の地盤を固めてゆき、元亀四年(1573)一月一日に義清が七一歳で病死。同年四月に信玄が五三で病死しました。
村上義清 相関図
参考文献
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「村上義清」144頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)
- 千坂精一「村上義清」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)69頁