プロフィール
『甲陽軍鑑』等が伝える武将で、武田信玄の軍師とされる。
生誕年、出身地不明。独眼、手足も不自由。
五〇代の頃に武田に仕官し、村上義清と戦いおいて活躍。
第四次 川中島合戦において、信玄に啄木鳥(きつつき)戦法を提案するが、上杉謙信が一枚上手だった――!?
詳細
1.不細工にて不採用
武田信玄の軍師と言われ、先祖は今川氏の旧臣で、山本勘助は浪人して帰農したと言われています。
左目を失い、右足や手も傷のため不自由、小柄で色黒。しかし兵法に優れ、築城の名人でもありました。
天文五年(1536)四四歳?の時に今川氏へ仕官を望むも、容貌が醜いという理由で義元は召し抱えませんでした。
2.砥石くずれ
天文一二年(1543)五一歳?の時に、武田重臣で諏訪城代の板垣信方を頼りに甲斐に入って信玄に仕え、足軽大将に取り立てられました。
同一九年(1550)砥石くずれと言われる信州砥石(上田市)の戦いでは、村上義清軍に挟み撃ちにされ壊滅状態となった武田軍。五〇騎の精鋭を預かった勘助は、敵の正面におどり出て、注意を自分に向けさせました。これにより信玄は乱れた敵に追撃をかけました。
3.第四次 川中島合戦
永禄四年(1561)第四次川中島合戦において、妻女山(さいじょさん)に陣取った上杉謙信軍も、武田軍も全く動こうとしませんでした。
そこで勘助は、啄木鳥(きつつき)戦法を提案。啄木鳥は、くちばしで穴の反対側から叩き、驚いて出てきた虫を食べます。これに倣い、武田の別動隊が妻女山に夜襲し、敵は夜襲の勝敗によらず下山して川中島に向かう、そこを待ち伏せしていた本隊が迎え撃つ、という作戦でした。
啄木鳥戦法を察知した謙信は、敵を欺くため山頂にかがり火を残したまま妻女山を下山。霧の名所・川中島において、朝霧が晴れるまで信玄はこれに気付かず、気付いた時には既に上杉軍一万は八幡原(長野市)に車懸(くるまがか)りの陣を敷いていました。
これに対し武田軍本隊八千、一万二千は妻女山に向かっていました。本隊の信玄の弟・信繁が討たれ、諸角昌清が倒れました。勘助は敵に啄木鳥戦法を見破られたのを恥じ、死を覚悟しました。
武田二四将の一人・原隼人佐(はやとのすけ)が「君(主君)の御大事は今日と限らず、けっして短慮の振舞いをなさるな」と忠告。しかし勘助は「往くことは流れのごとし…」と言い残し、激戦の修羅場へ飛び出し果てたといわれています。
4.多くの謎
あるとき信玄が「本を読んだことがあるか」とたずねると、勘助は「一冊も読み申さず候」と答えました。高坂昌信原本著『甲陽軍鑑』は「一文字をひかずとも、学問なくとも物識(ものしり)というはこの勘助ならん。これただ智者と申す者也」と書いています。
勘助は『甲陽軍鑑』の創作上の人物とされ、実在すら疑わしい人物。戦後に勘助の実在をする史料等発見されるも、それでも勘助の実在が全面的に証明されたわけでなく、多くの謎を残したままです。
山本勘助 相関図
参考文献
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「山本勘助」136頁、「川中島合戦」146-147頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「川中島の戦い」86-93頁
- 中村整史朗「山本勘助」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)54-55頁