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戦国人物解説

石田三成(いしだ-みつなり)朝鮮侵攻と三成政権の因果関係

目次

序文プロフィール詳細:1.政権奪取 2.秀吉渡海を支持

3.朝鮮奉行 4.即戦力として戦う 5.清正との対立 6.第二次晋州城の戦い

7.和議破たん 8.太閤検地 9.秀吉の死 10.三成政権時の犠牲者

相関図補註参考文献関連記事

序文

賢明で、すべてを見通し、すべてをっていて、無私奉公の精神でさまざまな質問に答えてくれつつ自分の代わりに行動してくれて、しかも自分が何をすべきか賢いアドバイスまで与えてくれる――このような存在を望まぬ者など、はたしているだろうか? この種のテクノロジーが広く採用されることは、一方で…利用者の幼稚化を招いてしまう危険性も孕んでいる。マレー・シャナハン『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』

プロフィール

石田三成
Mitsunari Ishida

豊臣秀吉の寵臣。五奉行の一人。近江佐和山城主。幼名は佐吉。

秀吉関白就任当時の政権中心は秀吉の弟・秀長で、制圧を目論む秀吉を制止していた。秀長と千利休の死後に、三成が政権を掌握し朝鮮出兵が本格化。

文禄の役では朝鮮奉行として渡海。碧蹄館幸州山城及び第二次晋州城の戦いに参戦した。秀次切腹事件後に近江佐和山城主となり、五奉行に就任。

三成発明とされている太閤検地の目的は、朝鮮出兵の際の兵糧米と軍役数の確保にあった。慶長の役の只中に秀吉が死去、三成政権に危機が訪れる――

享年41(1560-1600)。同い年は直江兼続後藤又兵衛家康より17歳年下。

詳細

1.政権奪取

秀吉と三成の「出会い」の像
秀吉と三成 「出会い」の像
長浜駅前 2003年撮影

石田三成三成は、近江国(滋賀県)の土豪・石田正継の次男。

豊臣秀吉羽柴秀吉がたまたま疲れて立ち寄った近江長浜の寺に、一三歳の佐吉少年が気の利いたお茶の出し方をして秀吉の目にとまり、それ以後秀吉に近侍。

天下を統一した秀吉は、天正一三年(1585)に関白に就任した直後から、明国制圧の構想をしました。当時の政権の中心人物は、秀吉の弟・豊臣秀長秀長と秀吉の茶人・千利休千利休のコンビ。

秀長は秀吉の明国制圧に最も反対していた人物でしたが、天正一九年(1591)正月に死去。これがきっかけで、反秀長・利休派の三成らの動きが活発化。

茶の湯に際し朝鮮茶碗も使用していた利休は、同年二月に聚楽屋敷で切腹。切腹の理由は、三成との政策抗争に敗れたことが大きな起因でした。

三成三二歳は政権を掌握、秀吉は朝鮮出兵の本営として肥前名護屋(佐賀県)に築城を開始しました。

2.秀吉渡海を支持

文禄元年(1592)四月一三日、小西行長小西行長を先鋒(せんぽう)として日本軍が釜山に上陸。日本軍は破竹の勢いで北上して僅か半月余りで首都ソウル(漢城)を制圧。

この頃、肥前名護屋では秀吉が自身も朝鮮へ渡海すると言い、これを浅野長政浅野長政が制止。しかし返って秀吉の怒りは増すばかりで言って聞かず、後日徳川家康徳川家康前田利家前田利家が秀吉を制止しました。

しかし三成三三歳は、秀吉が渡海せねば事は成就しないと主張。秀吉の前で激論となり、家康らは秀吉の万一の事あれば天下は相果てると主張すると、秀吉もこれに納得しました(等持院文書)。

3.朝鮮奉行として渡海

文禄の役地図・石田三成
図1:文禄の役 後半戦

秀吉は朝鮮渡海を諦めた代わりに、朝鮮奉行として増田長盛・三成・大谷吉継大谷吉継・前野長康・長谷川秀一の五人を派遣することにしました。

朝鮮奉行は、秀吉から朝鮮支配においての代官支配をもって諸大名に割り付け、朝鮮農民に対しての年貢の取り立てなどの指示を受け渡海。同年七月一六日にソウルに着陣しました。

これに先立ち、小西・宗義智宗義智らはソウルから更に北上して、同年六月一五日に平壌を制圧。しかし翌年一月六日、朝鮮の来援として明提督李如松が四万の兵を率いて小西・宋らが籠る平壌城を包囲しました。

小西・宋らは、圧倒的な明軍の兵の数と大砲の威力に敗れて平壌から脱出し、同年一月一七日にソウルへ帰陣。平壌敗北は、ソウルの日本軍に衝撃を与えました。

この勢いに乗ったは李如松は、首都ソウル・漢城の襲撃を目指して南下。これを先鋒隊の立花宗茂立花宗茂小早川隆景小早川隆景が同月二七日、ソウルの北方の碧蹄館で迎撃。

続いて本隊の黒田長政黒田長政に三奉行の増田長盛・三成・大谷吉継大谷吉継らも加わり、ソウルの日本軍は明軍を撃退しました。

4.即戦力として戦う

幸州山城の戦い
図2:幸州山城

一方、李如松南下に呼応して朝鮮軍の権慄が南から北上。ソウルの日本軍は幸州山城で権慄率いる朝鮮軍と戦闘になりました。

先鋒隊は小西行長小西行長、二番隊は三成・増田・大谷の三奉行、これに黒田長政・宇喜多秀家宇喜多秀家・小早川隆景らが続く布陣。

奉行として渡海したのに、即戦力になってしまっている三成・増田・大谷。日本軍が相当追い詰められている証拠なのでしょう。

激戦の末、日本軍は権慄率いる朝鮮軍に敗退し、三成は負傷。日本軍はソウルからの撤退を決定しました。

5.清正との対立

さてこの頃、文禄の役・第二軍の加藤清正加藤清正鍋島直茂鍋島直茂は、朝鮮東北の咸鏡道(ハムギョンド)を制圧。しかし義兵抗争が活発化すると敗北しました。しかし清正は咸鏡道は静謐であると主張。

清正はまた、自分のように小西行長小西行長が平壌で置目・法度を徹底させれば明への侵入が可能とし、自分を持ち上げて小西を非難しました。これに朝鮮奉行の増田・大谷らは、清正の敗北が明軍に知れ渡ってしまったので、これに勢いづいた明軍が平壌の戦いで勝利になったと清正を非難。

ここに、三成と豊臣奉行衆VS清正と豊臣武断派と対立構造が出来上がっていくのでした。

6.第二次晋州城の戦い

第二次晋州城の戦い
図3:第二次晋州城の戦い

文禄二年(1593)二月、清正と直茂がソウルへ帰陣。これより二週間程前に幸州の戦いで、朝鮮軍に敗れたソウルの日本軍はソウル撤退を決定。

秀吉は撤退の許可を与える代わりに、前年金時敏敗れた晋州城再び攻撃することを厳命しました。

これにより同年六月、第一隊の加藤清正・黒田長政・鍋島直茂ら、第二隊の小西行長・伊達政宗伊達政宗・浅野長政ら、第三隊の宇喜多秀家・三成・大谷吉継ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

一一日間の激戦の末、晋州城陥落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

7.和議破たん

一時停戦時、小西行長は和議を成立させるため、明の沈惟敬と図って、秀吉の窺い知らぬ所で秀吉の降伏文書を作成。行長家臣の内藤如安は、この降伏文書を携えて北京に向かい、明皇帝に恭順を誓いました。

後日、秀吉に露見して行長は大きな怒りを買いますが、首をはねられずに再出兵の際、再び先鋒隊を仰せつけられました。行長の命が助かったのは、朝鮮奉行である三成・大谷吉継・増田長盛も同意の上だという証拠の文書を差し出したためと言われています。または秀吉の外交軽視・文書軽視の現れも言えるでしょう。

一方、国内では秀吉の側室・淀殿が秀頼を出産。すると秀吉は、甥で養子の関白・豊臣秀次豊臣秀次が疎ましい存在になり、文禄四年(1595)年に七月に秀次は高野山に追放され切腹、妻妾子女ともども殺されました。

8.太閤検地

秀次事件ののち、三成は近江佐和山一八万石の城主、また豊臣五奉行の一員となり、その権勢は留まるところがありません。

実際、三成は能吏に長けていました。国によってバラバラだった検地を全国規模で統一した太閤検地は、三成の発明とも言われています。太閤検地は朝鮮出兵に際して石高によって組織し、兵糧米と軍役数の確保することを目的がありました。また太閤検地は、刀狩りとセットで身分秩序の構築の目的もありました。

9.秀吉の死

慶長の役日本軍進路と主な戦い
図4:慶長の役 日本軍進路図主な戦い

慶長二年(1597)、日本軍は朝鮮再出兵となりますが、三成は渡海しませんでした。

慶長三年八月、秀吉が死去。徳川家康徳川家康ら五大老、三成ら五奉行が朝鮮に出兵した日本軍に帰国せよと指示。

日本軍の帰国が始まると、日本軍追撃戦として同年一一月に朝鮮水軍の李舜臣李舜臣と明水軍の陳璘が、露梁(ノリャン)で島津義弘 島津義弘らの水軍を撃破して、七年にも及ぶ朝鮮の役はようやっと幕を閉じました。

10.三成政権時の犠牲者

石田三成布陣跡
関ヶ原 笹尾山
三成布陣跡 2003年撮影

慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで三成は家康と戦って敗れ、京都六条河原で処刑されました。

三成は常に民政に留意していた(ブリタニカ国際大百科事典)などと言われますが、近江領内の局所的な話をされても「?」。単なるローカル大名ではありません[]。

三成政権時に朝鮮の役に駆り出され異国の地で死んでいった日本の多くの百姓や侍、また日本に無理やり連れて来られた儒者の姜沆初めとする多くの朝鮮の人々がいます。

三成が小西行長の日明和議交渉を支えたことや、関ヶ原本戦の三成隊の奮戦など注目に値する点もあります。三成の名誉のために言っておくならば逆に、豊臣政権は秀長と千利休が死んだ時点で関ヶ原を待たずに終わった、と言っても過言ではないのでしょうか。

石田三成 相関図

石田氏

  • 父:正継(浅井長政家臣)、母:岩田氏
  • 兄:正澄
  • 妻:皎月院殿(こうげついんどの:宇多頼忠の娘)
  • 子:重家、重成ほか

豊臣政権

文禄の役

最大のライバル

補註

石田三成の近江領内の村々に下した十三ヵ条と九ヵ条については、かなり専門的になるが児玉幸多 著『 近世農民生活史』(吉川弘文館、2006年)を一読されたい。石高制を基礎とした夫役人の定め方から三成の人となりが伺えるようである。

参考文献

関連記事:石田三成