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戦国武将解説

前田利家(まえだ-としいえ)

プロフィール

前田利家
Toshiie Maeda

加賀藩の祖。幼名は犬千代。愛称は槍の又左。

豊臣秀吉のナンバー2ということで、常に権勢家の側にいる。

幼少の頃から織田信長に仕え、化粧をしてかぶいて青年期はやんちゃだった。のちに柴田勝家佐々成政と共に織田の北陸方面軍として越後上杉氏と戦う。

本能寺の変のあとの賤ヶ岳の戦いではじめ勝家の側に属したが、戦闘中に羽柴秀吉に寝返り、加増されて金沢城に移った。

また、秀吉の越中出兵に出陣し成政を富山城に破る。そんな利家だが、文禄の役では自身も朝鮮へ渡海しようとする秀吉を家康と共に制止した。

秀吉死後、天下を奪わんとする家康が台頭。果たして又左は家康を牽制(けんせい)できるか――?!

享年61歳(生1538-没1599)。長宗我部元親と同い年。 秀吉より2歳年下。家康より4つ年上。

詳細

1.ぶっ飛んだ青年時代

前田利家利家は尾張国(愛知県西部)の土豪・前田利春の四男。

幼少から四歳年上の織田信長織田信長に仕え、若い頃は化粧をしてかぶいて、槍働きを得意とした為「槍の又左(やりのまたさ)」と呼ばれていました。

永禄三年(1560)二三歳の時、桶狭間の戦いに無断で出陣。敵の首級をあげましたが、信長に叱責され、怒って首級を泥中に叩き込みました。なんてお似合いの主君と家臣なんだ…

2.こんな大人に誰がした

天正三年(1575)利家三八歳の時、柴田勝家柴田勝家に越前一国の支配権が与えられた際、利家は不破光治・佐々成政佐々成政と共に府中三人衆として、勝家を監視する目付役の職を与えられました。

加賀一向一揆の壊滅後、天正五年(1577)四〇歳の時に信長より能登国を与えられ七尾丸山城に移り、織田の北陸方面軍として勝家と成政と共に越後上杉氏との戦いました。

本能寺の変で信長が倒れ、天正一一年(1583)四六歳の時、賤ヶ岳の戦いではじめ勝家の側に立ちましたが、戦闘の最中に豊臣秀吉豊臣秀吉に寝返りました。これは小早川秀秋小早川秀秋以上にひどい裏切りだと思う。

この功により利家は北加賀二郡を加増され金沢城に移りました。何故そんなつまんない大人になってしまったんだろう…

天正一二年(1584)小牧・長久手の戦い(秀吉VS徳川家康徳川家康織田信雄織田信雄)の際には在国して守備にあたり、秀吉の越中出兵に出陣、成政を富山城に破りました。

天正一九年(1591)に奥州征伐(秀吉VS九戸政実)に従軍した際は、伊達政宗伊達政宗南部信直南部信直の意向を秀吉に取り次ぎました。

3.又左の良心の呵責

豊臣秀吉豊臣秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月十三日、日本軍朝鮮へ侵攻。五五歳の利家は、肥前(佐賀県)名護屋に在陣しました。

日本軍が首都ソウルや平壌を制圧すると、肥前名護屋では秀吉が自身も朝鮮へ渡海すると言い、これを浅野長政浅野長政が制止。しかし返って秀吉の怒りは増すばかりで言って聞かず、後日徳川家康徳川家康と利家が秀吉を制止しました。しかし石田三成石田三成は、秀吉が渡海せねば事は成就しないと主張。

秀吉の前で激論となり、家康らは秀吉の万一の事あれば天下は相果てると主張すると、秀吉もこれに納得しました。

4.ここぞという時に死ぬ

慶長前期地図_中部地方周辺
図1:慶長前期地図_中部地方周辺
幸長の居城は甲斐府中

その後、五大老に就任、名実共に秀吉のナンバー2になりました。慶長三年(1598)四月、六一歳の時に家督を利長に譲りましたが、同年八月秀吉の死後、大坂城に入り豊臣秀頼秀頼の後見。

果たして天下を奪わんとする徳川家康徳川家康を牽制(けんせい)できるか、というところで秀吉の後を追うように翌慶長四年(1599)閏三月に大坂城で死去しました。

だから権勢家の側にいるような人間は信用できない。個人的に。

前田利家 相関図

織田政権

主君:織田信長織田信長

北陸方面軍の仲間:柴田勝家柴田勝家佐々成政佐々成政

豊臣政権

主君:豊臣秀吉豊臣秀吉

五大老:徳川家康徳川家康宇喜多秀家宇喜多秀家毛利輝元上杉景勝上杉景勝

面倒を見た武将:能登に流された浅野幸長浅野幸長二〇歳

  

前田利家関連リンク

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参考文献

国史大辞典編集委員会 編集 『国史大辞典〈13〉 』(吉川弘文館 1992年 )

平凡社編『日本人名大事典〈第6巻〉マテ~ワ (1979年) 』(平凡社、1979年)