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戦国武将解説

万暦帝(ばんれき-てい)

プロフィール

万暦帝
Min
The 14th emperor

明朝 第14代皇帝。姓名・朱翊鈞(しゅよくきん)。廟号・神宗(しんそう)。

年号により万暦帝と呼ばれる。

僅か十歳で即位。宰相の張居正(ちょう-きょせい)は、万暦帝を厳しく教育しつつ独裁政治を発揮して明の財政状況を好転させる。

万暦帝20歳の時に張先生が死去すると、反長派が台頭して聡明な万暦帝の規範の中に納めた。万暦帝は前代未聞の長期的なサボタージュでこれに対抗。

次の宰相の長派の申時行(しん-じこう)は、反長派とも万暦帝とも比較的良い関係を築く。

しかし申先生は、女真族のヌルハチの動きに注意を払わず放っておく。一方、豊臣秀吉の明国制圧の野望により日本軍が朝鮮に侵攻。この年に申先生辞職。

明は朝鮮へ援軍を派遣。30歳の万暦帝は相変わらずサボタージュ中。漢民族の王朝・明の行方は如何に!?享年58(生1563~没1620)。

秀吉より27、宣祖より12歳年下。細川忠興加藤嘉明と同い年。つまりは三成正則清正らと同世代。

詳細

1.張居正の光と影

東アジア地図
図1:東アジア各国関係図

万暦帝は、明朝第一三代皇帝・隆慶(りゅうけい)帝の第三子。

隆慶帝の死去、内閣大学士の張居正(ちょう-きょせい)は、万暦帝の後見を巡る政争に乗じ、宰相・主席内閣大学士の高供(こうきょう)を蹴落として、宰相・主席内閣大学士の地位に就きました。

かくして皇帝ナンバー2となった四八歳の張居正は、僅か(数えで)十歳で即位した万暦帝を厳しく教育しつつ、その後十年宰相として独裁政治を発揮。

その間、万暦帝は健気に張居正の厳しい指導の元、良き皇帝たらんと真面目に努力していました。

張居正は、倭寇の制圧やモンゴルとの和議を結んで軍事支出を抑え、北方前線に名将・李成梁(り-せいりょう・李如松の父)を起用し、国境の安寧も保ちました。また、地主階級を押さえて農民の負担を平均化し、全国的な検地を実施。これによって財政状況は久しぶりに好転しました。

しかし一方、反対者を押さえつけ、効率重視で一切の妥協を許さない厳格な張居正は、反派閥から見れば古の聖賢の教えを捨てた独裁者にしか見えませんでした。

2.紫禁城の囚徒

改革の半ばの万暦十年(1582)、五八歳で張居正が死去すると反張派が台頭。

反張派は二十歳の万暦帝に、張は節約を旨としながら自身は贅沢な暮らしをしていたと訴えて、張居正の官階をはく奪、財産没収、その家族も流罪にしてしまいました。これにより万暦帝は政府の大権を回復。

しかし張居正の事件が決着すると、彼らの攻撃目標はただちに皇帝に向けられ、諌言という名のもとに皇帝は奢侈であり、怠惰であり、愛妃の鄭氏(ていひ)を寵愛し孝端皇后王氏を冷遇しているなど批判。

彼らは皇帝を彼らが設けた規範の中に納めてしまい、皇帝の個性を自由に発展させませんでした。

万暦帝は紫禁城の一人の囚徒にす過ぎませんでした。

3.次の宰相・申時行

張居正の派閥が一掃して、朝廷の空席になった大量の職席には反張派が進んで当たりました。

張居正に代わって宰相・主席内閣大学士は、当然のごとく反張派の大学士・張四維(ちょうしい)が就任。ところが一年も経たないうちに張四維の父が死去。規定によって職を辞して故郷に帰って喪に服しました。

この休職中、大学士・申時行(しんじこう)が主席大学士を代行。しかし張四維は急病を患い死去したため、思いがけず張派の申時行が主席大学士となりました。

申時行は、嘉靖四一年(1562)二八歳の時に進士第一で合格。翰林院(かんりんいん)に一五年、ここで詔勅(皇帝が意思を表示する文書)の作成にあたり、万暦六年(1578)四一歳で張居正の知遇を得て内閣大学士となって入閣。

張居正と張四維の死去により同一二年(1584)五〇歳で宰相・主席内閣大学士に就任。性格は謙虚で鷹揚で、臣としての道をよくわきまえていました。

4.皇帝のサボタージュ

一方、張居正が死去した時に二十歳になっていた万暦帝は、空前絶後の例となる二十年にも及ぶ長期的なサボタージュを敢行。

理由は、皇帝といえど儀礼と人事の二つを出ず、お気に入りの鄭氏(ていひ)が産んだ第三皇子・常洵(じょうじゅん)を第一皇子の常洛(じょうらく)に代えて太子に立てることを文官が許さなかったからです。

万暦帝のお気に入りの鄭氏は、万暦帝と同じく読書人で、万暦帝のよき相談相手であり、妃というより同志。

第一皇子が太子に封じられ、第三皇子が福王に封ぜられ河南の封地に至ると、皇帝にとって生涯消えない心の傷となり、各種の儀礼に皇帝は出席しなくなりました。

一方、この継承争いの中で下野した反張居正派の人々は、反中央政府の活発な言論活動を行い、彼らは東林党と呼ばれ、朝鮮での党争の始まりとほぼ時を同じくして、万暦中期以降の中国にも激しい政争の季節が訪れるのでした。

馬

5.申時行の功績と大失態

黄河の氾濫は帝国の一大難題で、堤防が決壊するたびに、生命と財産の損失は記録しきれないほどでした。

宰相・申時行は、黄河治水専門家・潘季馴(はんきじゅん)に治水工事を任せると、潘季馴は堤防の建て方に工夫をこらし、河水の道筋を変えて氾濫を抑えました。

ちょうどこの頃、万暦一五年(1587)万暦帝二五歳の時、中国東北地方の巡撫は、建州衛の酋長が付近の部族を配下におさめていることに危機感を持ちました。

そこで酋長を討伐しようとしましたが、部下はこれに反対し論争になりました。

宰相・申時行は巡撫と部下の仲裁者として調停に入り、これ以上論争の是非を追及しないよう言い渡しました。かくしてこの酋長は思うまま振る舞うこととなりました。

この酋長の名はヌルハチ。のちに清の太祖となる人物でした。

6.万暦三大征

文禄の役 朝鮮全土関係図
図2:文禄の役 朝鮮全土関係図
日本軍進路と国王避難路

明の平和が終わりを告げるかのように、万暦年間の半ば(1590年代)に辺境の諸戦争が勃発。

万暦帝二五年(1597)、貴州の土司(どし・少数民族の有力者)楊応龍(ようおうりゅう)の反乱がありましたが、鎮圧しました。

これに先立つ同二〇年(1592)、寧夏のモンゴル人将軍ボハイの乱、豊臣秀吉豊臣秀吉の明制圧の野望により七年にも及ぶ朝鮮侵略―文禄の役が始まりました。以上を万暦三大征と言います。

この年、万暦帝三十歳の時に申時行は、皇帝の顧問として誰もが納得するかたちで継承問題を解決できなかったことを理由に辞職。万暦帝との仲は良好したが、人の非難にじっと耐えるといった域には達することができませんでした。

一方日本軍は、破竹の勢いで朝鮮の首都・ソウルを制圧、更に北上し平壌も制圧。日本軍は明の国境まで迫っており、もはや対岸の火事ではない明は朝鮮に援軍を派遣することを決定。

提督・李如松は四万の明兵を率いて、小西行長小西行長が籠る平壌を奪回しました。

7.日明和平交渉

危機に陥った小西行長は明の外交家・沈惟敬と和議を進めました。これにより明の使節・謝用梓・徐一貫が来日。秀吉は肥前名護屋で彼らに和議七ヶ条を示しました。

その内容は、明と明の皇女を日本の天皇の后にすること、勘合貿易の復活、朝鮮八道の内の北部四道と漢城は返還するが南部四道(慶尚、全羅、忠清、京畿)は日本に割譲せよ、など。

明の使節の謝用梓・徐一貫はこれを受け取り、帰国。沈惟敬は釜山で謝用梓・徐一貫を迎えました。

秀吉の和議七ヶ条は、万暦帝に見せられる内容ではなく、だからと言って日明との和平交渉を決裂させて再び戦争なんてことは避けたい。

そんな沈惟敬と行長は、勝手に秀吉の降伏文書を作成。更に行長の家臣・内藤如安(じょあん)を日本の使節に仕立てました。

秀吉が知るよしもない降伏文書を携えた如安は、万暦二二年(1594)十二月に北京に到着。三二歳の万暦帝に拝謁して恭順を誓いました。

富士山

8.沈惟敬の来日

明朝廷は、降伏文書が偽造であるとは露とも思わず、日本に冊封(さくほう)使節を派遣することを決定。

万暦二四(1596)年九月、明冊封使節の正使・楊方亨、副使・沈惟敬が大坂城で秀吉に拝謁しました。翌日、明冊封使節歓迎の宴が開かれ、徳川家康徳川家康前田利家前田利家も出席。

秀吉は万暦帝が贈った王冠と赤の官服を身に着け、腹心の五山僧・西笑承兌(せいしょう-じょうたい)に万暦帝からの国書を読ませました。しかし、

「ここに特に爾(なんじ)を封じて日本国王となす」

という文言に秀吉は激怒。日本国王を大明皇帝を読み替えてほしいと、小西行長は予め承兌に頼みましたが、承兌はそのまんま読み上げました。

おまけに秀吉が提示した和議七ヶ条については何も触れられていません。ここに日本と明との和平交渉は決裂。日本軍再出兵を決定しました。

小西行長の首はなんとか繋がりましたが、再出兵の際も彼は第一軍として朝鮮に渡海することを命じられました。沈惟敬は帰国後、万暦帝への国書を偽造した罪で処刑されました。

9.明の援軍の底力

慶長の役日本軍進路と主な戦い
図2:慶長の役 日本軍進路図主な戦い

明は日本の再出兵に際し、再び朝鮮へ援軍を派遣することを決定。

六部・左侍郎だった邢玠(けいかい)を経略禦倭軍務総督、都察院(とさついん)・右僉都御史だった楊鎬を経略朝鮮軍務使、五軍都督府の都督だった麻貴(まき)を提督禦倭総兵官に任命。

楊鎬は日本軍ソウル再侵入を稷山(チクサン)で阻止し、また麻貴と朝鮮軍の権慄らと共に加藤清正加藤清正浅野幸長浅野幸長らが籠る蔚山倭城を六万の大軍で包囲して日本軍を苦しめました。

万暦二六年(1598)八月に秀吉が死去すると、明・朝鮮連合軍は迎撃戦から追撃戦に作戦を変更し、同年九月に順天倭城の小西行長小西行長の帰国の退路を抑えました。

小西行長の救援に同年一一月、島津義弘島津義弘立花宗茂立花宗茂宗義智宗義智ら約五百隻の大船団が南海から露梁(ノリャン)に迫りました。これを水軍都督・陳璘が朝鮮水軍司令官・李舜臣李舜臣と共に撃破。この戦闘中、小西行長は順天から脱出。

島津勢は多数の死傷者を出し、日本軍との最後の戦いは明・朝鮮連合軍の大勝利に終わりました。

10.明の終わりの始まり

サルフの戦い地図
図4:サルフの戦い

しかし露梁海戦の勝利は、明朝の最後の輝きだったかもしれません。

万暦四六年(1618)万暦帝五六歳の時、女真族の長・ヌルハチの清軍が対明攻撃を決意し、遼寧省・撫順(ぶじゅん)を陥れました。

翌年、清の本拠地を撃破する為に楊鎬が明軍四七万を率いて出撃しましたが大雪の為、四万五千以上の兵を失い明軍は大敗しました(サルフの戦い)。その責任を問われて楊鎬は死刑に処せられました。

申時行がヌルハチを遊ばせておいた大失態に併せて、その後の明は、朝鮮の日本軍にかかずらっていたこともあって早くから新興勢力・女真族の勢力を抑え込むことができませんでした。

また、文禄・慶長の役に戦費八〇〇万両を支出し、国庫が窮乏したので各地に鉱山を開きましたが、税吏の弊害が甚だしく民の恨みを招きました。

万暦帝は張居正の厳しい教育に耐えて培った教養を一度も活かすことなく、万暦二〇年(1620)に没しました。享年五八。『明史』に「明の亡ぶは、実は神宗に老いて亡ぶなり」とあります。

万暦帝没後二〇年後、ヌルハチが太祖となって清を建国し、明は最後の漢民族の王朝となりました。

相関図

宿敵

日本の豊臣秀吉豊臣秀吉と女真族のヌルハチ

明国

沈惟敬李如松楊鎬陳璘劉綖

朝鮮国

王室:宣祖光海君/朝廷:柳成龍金誠一/陸軍:権慄金時敏沙也可

水軍:李舜臣李舜臣元均/義兵将:郭再祐/学者:姜沆

  

万暦帝 リンク

イラスト

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

詳細事項

村上水軍とは 前編後編日朝国交回復年表

参考文献

黄 仁宇『万暦十五年―1587「文明」の悲劇 』(東方書店、1989年)

岸本 美緒 、宮嶋 博史『世界の歴史 (12) 明清と李朝の時代 』(中央公論社、1998年)

中村栄孝 他『アジア歴史事典〈第7巻〉』(平凡社、1961年)

北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

上垣外 憲一『空虚なる出兵―秀吉の文禄・慶長の役 (Fukutake Books) 』(福武書店、1989年)