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戦国人物解説

黒田長政(くろだ-ながまさ)朝鮮出兵準主役のダミアン

目次

プロフィール詳細:1.秀吉の預け 2.平壌城を落とす

3.廷安の戦い 4.ソウルへ帰陣 5.碧蹄館・幸州山城の戦い

6.第二次晋州城の戦い 7.朝鮮再出兵 8.稷山の戦い 9.蔚山の戦い

10.関ヶ原の戦い 11.福岡藩の祖相関図参考文献関連記事

プロフィール

黒田長政
Nagamasa Kuroda

福岡藩の祖。父は黒田官兵衛

幼名・松寿丸、通称・吉兵衛、洗礼名・ダミアン。

戦国の意識高い系。もとい文禄・慶長の役での日本側の準主役。

文禄の役では、小西行長宗義智らと共にソウルから更に北上して平壌を制圧。このあと長政軍は、黄道道を統治したが義兵と戦闘となる。

慶長の役では、稷山で明軍の迎撃を受け、苦しい戦いを強いられた。関ヶ原を経て、苦楽を共にしたはずの家臣の後藤又兵衛は何故か出奔してしまう――

享年五六(1568-1623)。同い年は豊臣秀次宗義智伊達成実

詳細

1.秀吉の預け

文禄年間 九州諸大名配置図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

黒田長政長政は、黒田官兵衛黒田官兵衛の子として姫路に生まれました。しかし一〇歳の時に織田信長織田信長の人質として、豊臣秀吉羽柴秀吉に預けられて滋賀県の長浜で育てられました。

父・官兵衛が、信長を裏切った荒木村重を説得しに有岡城に行ったまま帰って来ないので、信長は官兵衛も裏切ったと思い、官兵衛の子で人質であった長政を殺害しようとしました。

しかし官兵衛の友人・竹中半兵衛竹中半兵衛に助けられ、有岡城落城の際にはここに幽閉されていた官兵衛も救助されました。

成長した長政は秀吉の中国征伐に従軍し、賤ヶ岳の戦いで奮戦し武功を立てました。二二歳の時に官兵衛から家督を継ぎ、豊前(福岡県東部と大分県北部)中津城主として一二万を領しました。

2.平壌城を落とす

文禄の役・第三軍の黒田長政進路
図2:文禄の役 日本軍進路
第三軍の長政は平壌制圧後、廷安で敗退。

秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月一三日、先鋒隊の小西行長小西行長宗義智宗義智らが釜山に上陸。

これに第二軍の加藤清正加藤清正鍋島直茂鍋島直茂、第三軍の長政二五歳らが続きました。

日本軍は破竹の勢いで北上して僅か半月で首都ソウル(漢城)を制圧。

日本軍はソウルから北上して臨津江と開城も制圧すると、長政は先鋒隊の小西・宗と共に平壌を目指して西北に進軍しました。

これに先立ち朝鮮国王宣祖は、ソウルから平壌(ピョンヤン)、更に北上して明との国境・義州(イジュ)に避難。これにより同年六月一五日、小西・宋と長政は無人の平壌城に入城しました。

3.廷安(ヨンアン)の戦い

このあと長政は秀吉に指示されていた黄道道(ファンヘド)統治のため兵を返して南下。

命令に逆らう者は斬ると黄海道白川(ペクチョン)に榜文を立てて、ここの住人に農耕を強制し、黄海道海州(ヘジュ)を軍事拠点にしました。

しかし慶尚道で郭再祐が最初の義兵を起こすと、次第に各地でも義兵活動が活発化。黄海道では義兵としてイ・ジョンアム(李廷馣)が決起し廷安(ヨンアン)に城を構えました。

長政軍は同年八月二二日、廷安でリ・ジョンアムら朝鮮軍と戦闘となって敗退。長政軍は海州を放棄しました。

4.ソウルへ帰陣

文禄の役地図・黒田長政
図3:文禄の役 後半戦

これに先立ち朝鮮朝廷は明に援軍を要請。これにより翌年一月六日、提督李如松が四万の兵を率いて平壌城を囲みました。

小西・宋らは、圧倒的な明軍の兵の数と大砲の威力に敗れて平壌から脱出。大友義統在番の黄海道鳳山まで逃れましたが、平壌敗退の報を聴いた義統は逃亡して鳳山はものけのからでした。

ここから小西・宋らは長政籠る黄海道白川へと向かい、小西・宋・長政は同年一月一七日にソウルへ帰陣しました。

5.碧蹄館・幸州山城の戦い

この勢いに乗ったは李如松は、ソウル奪還を目指して南下。これを小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂・長政ら日本軍が、同月二七日、ソウルの北方の碧蹄館で撃退しました。

一方、李如松南下に呼応して朝鮮軍の権慄が南から北上。ソウルの日本軍は今度は、幸州山城で権慄率いる朝鮮軍と戦闘になりましたが長政ら日本軍は敗退。日本軍はソウルからの撤退を決定しました。

6.第二次晋州城の戦い

しかし秀吉は撤退の許可を与える代わりに、前年金時敏敗れた晋州城再び攻撃することを厳命。

これにより文禄二年(1593)六月、第一隊の加藤清正・長政ら、第二隊の小西行長・宗義智・伊達政宗伊達政宗・父の官兵衛ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

一一日間の激戦の末、晋州城陥落し、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

7.朝鮮再出兵

慶長の役日本軍進路図_右軍01
図4:慶長の役 日本軍進路図_右軍

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより長政三〇歳は三番隊として再出兵しました。

これに対して明は、朝鮮に援軍を再派遣。指揮官には経略・邢玠と楊鎬、提督・麻貴らがいました。

八月はじめ、軍全体を左右に分けて宇喜多秀家宇喜多秀家を総帥とする小西行長・島津義弘島津義弘ら左軍は慶尚道から全羅道・南原へ進軍。

毛利秀元毛利秀元を総帥とする加藤清正・長政ら右軍は、慶尚道から北上して忠清道を目指して進軍しました。

8.稷山(チクサン)の戦い

稷山の戦い
図5:稷山の戦い

明の経略・楊鎬は、平壌からソウルに南下。提督・麻貴と作戦を定め、忠清道稷山(チクサン)で日本軍を迎撃することにしました。

慶長二年(1597)九月七日、忠清道を目指し北上していた長政の先鋒隊と明軍が稷山で衝突。後続の長政軍と秀元軍が救援にかけつけ激戦となり、両軍多数の死者を出し両軍とも引き上げました。

この戦いによって日本軍はこれ以上北上できず、ソウル(漢城)侵入は果たせませんでした。

稷山の戦いの一〇日後、李舜臣李舜臣が朝鮮水軍を率いて鳴梁海峡で、藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治らの水軍を撃破。 明・朝鮮軍が本領を発揮し始めました。

9.蔚山の戦い

倭城分布図_慶尚道南東海岸
図6:倭城分布図_慶尚道南東海岸

稷山の戦いから二か月後の一一月、加藤清正・浅野幸長浅野幸長らは、蔚山(ウルサン)の島山に倭城普請に取りかかりました。邢玠・楊鎬・麻貴の次の狙いは日本軍のシンボリックな存在・加藤清正。

一二月二三日、楊鎬・麻貴率いる明軍と権慄率いる朝鮮軍併せて六万の連合軍が日本軍二千余が籠る蔚山倭城を包囲。城内は食糧もなく、敵に水道も断たれたため、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出。

城内の疲労は限界に達しましたが、年明け二日に毛利秀元・長政・直茂ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。しかし救援軍は敗走する敵軍を追撃しませんでした。

同年(慶長三年)八月に秀吉が死去。同年一一月に李舜臣と明水軍都督の陳璘が日本軍を追撃すべく、露梁(ノリャン)で島津義弘らの水軍を撃破。こうして七年にも及ぶ朝鮮の役はようやっと幕を閉じました。

10.関ヶ原の戦い

関ヶ原合戦直前の諸大名配置図
図7:関ヶ原合戦直前の諸大名配置図

帰国後、関ヶ原の戦い前夜。

石田三成嫌いの武断派の加藤清正加藤清正福島正則福島正則らと共に長政は、前田利家前田利家邸にいる三成を安易に襲撃して失敗に終わりました。

徳川家康徳川家康の東軍についた長政は、慶長五年(1600)九月の関ヶ原本戦で西軍の小早川秀秋小早川秀秋を謀略を持って寝返らせることに成功。また西軍毛利氏吉川広家と通じて、長政は南宮山に布陣した毛利秀元を戦わせなかったのでした。

長政の謀略が功を奏したこともあり、関ヶ原で東軍が勝利。大津城の内庭で捕えられた西軍の石田三成石田三成が冷たい秋風にさらされている姿を見ると、長政は自分の服を三成に着せてあげるのでした。え

11.福岡藩の祖

関ヶ原の功により長政は、中津一二万石から筑前福岡五二万石に封じられ、福岡藩の祖となりました。父・官兵衛も福岡に移りましたが、そののち慶長九年(1604)三月に病死しました。

更に幼い頃から長政の家臣として仕えていた後藤又兵衛が、長政とどうにもソリが合わずに出奔。これにより大坂の陣で東軍の長政と西軍の又兵衛は敵として戦うことになり、又兵衛は戦死しました。

戦国のゲルニカとも呼ばれる大坂夏の陣図屏風は長政が絵師に描かせたと言われています。大坂夏の陣の八年後の元和九年(1623)八月に長政は五六歳の生涯を閉じました。

それにしても個人的に最近黒田長政TVを描けてないのがダミヤン。え

黒田長政 相関図

黒田氏

  • 祖父:職隆(もとたか)
  • 父:官兵衛(孝高)、母:幸圓(こうえん)
  • 継室:栄姫(家康の養女、保科正直の娘)
  • 息子(母は栄姫):長男 忠之、三男 長興、四男 高政
  • 娘:榊原忠次(康政の孫)室

豊臣政権

文禄・慶長の役

参考文献

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