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戦国武将解説

後藤又兵衛(ごとう-またべえ)

プロフィール

後藤又兵衛
Matabe Goto

黒田長政の家臣。又兵衛は通称で、正式名は基次。

大坂の陣・豊臣方でそれ以前の戦場実績ピカイチの無頼漢。

幼少のころに小寺政職の下にあった父が病死したため、政職の家臣・黒田官兵衛によって養育され、官兵衛とその子・長政に仕える。

文禄の役では長政と共に渡海。第二次晋州城の戦いで、加藤清正と長政が亀甲車なるものを考案し石壁を崩し、又兵衛は一番乗りで城内に侵入した。

慶長の役も長政と共に渡海。帰国後、関ヶ原戦いの功により長政が筑前国をもらったので、又兵衛は一万六千石を与えられ嘉麻郡大隅城を預かる。

そののち長政と対立し出奔して浪人となるが、豊臣秀頼に保護される。これに恩義を感じ、大坂の陣で秀頼の招きに応じて京都から大坂に参陣する――

享年56(生1560-没1615)。石田三成直江兼続と同い年。

詳細

1.長政との青春

文禄年間 九州諸大名配置図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

又兵衛は、播磨別所氏の家臣である新左衛門の子として播磨国(兵庫県)に生まれました。新左衛門はのちに客分として御着(ごちゃく)城主・小寺政職(こでら-まさもと)のもとにいましたが、ほどなく病死。

これにより幼少の又兵衛は、政職の家臣・黒田官兵衛黒田官兵衛によって養育されることとなりました。成人後、叔父・藤岡久兵衛の逆心により共に追放され仙石越前守のもとに行きました。

のちに又兵衛より八つ下の官兵衛の子・黒田長政黒田長政に呼び戻されて、又兵衛は官兵衛・長政に仕えました。

しかし官兵衛は又兵衛は謀反人の一族なればそば近く召仕うこと無用なりと言ったので、家臣の栗山利安のもとに預けの身となり知行百石を与えられましたが、そのあと長政によって次第に重用されるようになりました。

天正一五年(1587)の九州征伐で長政二〇歳と又兵衛二八歳は各所に転戦して功を立て、長政は二二歳で官兵衛から家督を継ぎ、豊前(福岡県東部と大分県北部)中津城主として一二万石を領しました。

2.文禄の役緒戦

文禄の役・第三軍の黒田長政進路
図2:第三軍・黒田長政の進路
平壌は没落させたが廷安の戦いに敗退。

豊臣秀吉豊臣秀吉日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月十三日、先鋒(せんぽう)隊の小西行長小西行長宗義智宗義智らが釜山に上陸。

これに第二軍の加藤清正加藤清正鍋島直茂鍋島直茂、第三軍の黒田長政軍らが続きました。

日本軍は破竹の勢いで北上して僅か二十日で都ソウル・漢城を制圧。

又兵衛は、母里友信・黒田一成と三人で一日交代に長政の先手を務めました。

長政軍は先鋒隊の小西・宗と共に西北に進軍して平壌城も制圧。

このあと長政軍は兵を返して南下、秀吉に指示された黄道道(ファンヘド)を統治しました。

しかし同年八月二二日、黄道道・廷安(ヨンアン)でリ・ジョンアムら朝鮮軍と戦闘となって敗退。長政軍は軍事拠点だった海州(ヘジュ)を放棄しました。

3.平壌・碧蹄館・幸州の戦い

文禄の役地図・黒田長政
図3:文禄の役 後半戦

翌年一月六日、提督李如松が四万の兵を率いて平壌城を囲み、小西・宋らは長政軍のいる黄道道に敗走。長政軍は小西・宋らと共に共にソウルへ帰還しました。

この勢いに乗ったは李如松は、都ソウル・漢城の襲撃を目指して南下。これを小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂・長政ら日本軍が、同月二十七日にソウルの北方の碧蹄館(ピョクジェグアン)で撃退。

一方、李如松南下に呼応して朝鮮軍の権慄が南から北上。ソウルの日本軍は今度は、幸州(ヘンジュ)山城で権慄率いる朝鮮軍と戦闘になりましたが長政ら日本軍は敗退。日本軍はソウルからの撤退を決定しました。

4.第二次晋州城の戦いの一番乗り

しかし秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた前年に敗れた晋州城再び攻撃することを厳命しました。

これにより文禄二年(1593)六月、第一隊の加藤清正加藤清正・長政・鍋島直茂鍋島直茂島津義弘島津義弘、第二隊の小西行長小西行長宗義智宗義智細川忠興素材細川忠興伊達政宗伊達政宗浅野長政浅野長政黒田官兵衛黒田官兵衛、第三隊の宇喜多秀家宇喜多秀家石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継、第四隊の毛利秀元毛利秀元、第五隊の小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

清正と長政は、晋州城の石壁を崩すために、大きな箱形の四輪車・亀甲車なるものを作り出しました。かくして清正軍の森本義太夫・飯田覚兵衛、長政軍の又兵衛らは足軽を率いて亀甲車を押して進んで、晋州城北面の石壁を崩しました。

東門の支城も亀甲車によって崩れると秀吉軍が城内になだれ込み、又兵衛三四歳は一番乗りを果たしました。

十一日間の激戦の末、晋州城没落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

7.慶長の役と関ヶ原の戦い

慶長の役地図_黒田長政
図4:慶長の役
黒田軍は稷山、蔚山の戦いで活躍。

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより長政は三番隊として再出兵。又兵衛もこれに従いました。

帰国後、慶長五年(1600)九月関ヶ原戦いでは、四一歳の又兵衛は長政の先手を務め、又兵衛は合渡川の先陣をなしました。

この時、後藤基次なりと名乗りを挙げて黒田家臣という事を理(ことわ)らなかったので、後で長政の叱責にあいましたが、あえて気にかけなかったと言います。

同月一五日の関ヶ原本戦では石田三成石田三成軍を撃ち破り、同年長政が筑前国をもらったので、又兵衛は一万六千石を与えられ嘉麻郡大隅城を預かりました。

しかし大隅城にあって他家と書状を取り交わし、他国と交際したことによって長政に嫌われた又兵衛は、同一一年筑前を立ち退きました。池田輝政のもとにありましたが、長政からクレームがついて同一六年池田家を離れました。

8.大坂の陣

又兵衛は大坂に隠棲していたとき、長政は強引に又兵衛を召し返そうしましたが、豊臣秀頼豊臣秀頼が大坂に住む浪人は御家人同然と又兵衛を保護しました。

慶長一一年(1606)大坂冬の陣で秀頼の招きに応じて京都から大坂に参陣しましたが、それはこの恩義によるものでした。

しかし又兵衛は黒田家臣として以前徳川家康に目見えた際、家康を天運に叶った名将といい、茶臼山に現れた家康を大坂城中から撃つことをやめたといいます。木村重成と共に今福で佐竹義重勢と戦い負傷、また、秀頼に諫言して講和をすすめました。

翌年の元和元年(1615)夏の陣では、野戦よりも大和口の山から下る敵への先手攻撃を主張、五月六日河内国道明寺河原に出撃して、伊達政宗伊達政宗勢と戦い銃弾にあたって戦死しました。享年五六

又兵衛といえばとかく大坂の陣のみが注目されますが、それまでの長政との歩みや余り褒められたもんじゃないですが第二次晋州城の戦いの活躍などをふまえないと、又兵衛の魅力が半減してしまう気がします。

それにしても又兵衛は何にも執着していない颯爽としたところがあってカッコイイですね。そういう武将だから余計又兵衛執着した長政の気持ち、よくわかる。(笑)

後藤又兵衛相関図

主君

黒田官兵衛黒田官兵衛黒田長政黒田長政

平壌没落

味方:小西行長小西行長宗義智宗義智

碧蹄館の戦い

ライバル:李如松

味方:小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂宇喜多秀家宇喜多秀家

幸州山城の戦い

ライバル:権慄

味方:小西行長・石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継・小早川隆景・宇喜多秀家ら

第二次晋州城の戦い

第一隊:加藤清正加藤清正・長政・鍋島直茂鍋島直茂島津義弘島津義弘

慶長の役

日本右軍:毛利秀元毛利秀元・加藤清正・浅野幸長・鍋島直茂・長政ら

ライバル:明の経略・楊鎬、提督・麻貴、朝鮮軍・権慄

大坂の陣西軍

真田幸村真田幸村毛利勝永長宗我部盛親塙団右衛門木村重成

  

後藤又兵衛関連リンク

イラスト:リアルPOP焼肉

文禄・慶長の役

相関図

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詳細事項

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参考文献

平凡社編『日本人名大事典〈第2巻〉カ~コ (1979年) 』(平凡社、1979年)

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

国史大辞典編集委員会『国史大辞典 (5) 』(吉川弘文館、 1985年)