プロフィール
秀吉唯一の弟。通称・小一郎(こいちろう)。大和大納言。
弟(てい)の見本のような弟(おとうと)。
則ち兄秀吉の言いなりではなく、主体的に行動しながらこれを補佐。
その過程で自身は秀吉家臣団の肝心かなめとなるも、天下取りへのクライマックス・小田原の戦いでは病床にあり、兄は弟不在で北条氏を滅ぼした。
しかし天下取りなど偉大なる兄にとって余興の類。朝鮮出兵が現実味を帯び、弟の生死が豊臣の、はたまた日本の命運を分ける――?!
詳細
1.兄秀吉、出世して帰村
秀長は、通称・小一郎(こいちろう)と言い、秀吉の三つ下の同母弟。
兄が早くから家を飛び出し放浪生活をしている間、尾張の中村郷で母や姉を助け、野良仕事に精を出していました。
ある日、兄が郷に帰ってきた兄は、今では織田信長に仕え、足軽組頭になっていると言います。自分のもとに来ないかと誘われました[文献1]。
しかし史料に初めて現れる秀長は、信長家臣として秀吉とは別に軍事行動をとっています。秀吉の中国攻め以降、その麾下(きか)に入りました。
天正一〇年(1582)信長が明智光秀によって本能寺で討たれたのが秀長四二才の時。以降、病死するまでの一〇年、兄秀吉の天下取りに力を注ぎました。
山崎での光秀との戦い、賤ヶ岳での柴田勝家との戦い、小牧・長久手での織田信忠・徳川家康連合軍との戦いに秀長は活躍しました。
2.主体的な弟
秀長が初めて兄に反抗したのは、長宗我部元親を討つため、総大将として八万の大軍を率いて四国へ渡ったとき。
進撃が思わしくないと聞いた秀吉は、自ら四国へ行こうとしました。それを知った秀長は「秀吉がきたら、秀長の武力不足を示すことになり、秀長の恥にもなる。四国へくるのはやめてくれ。」
元親を降伏させ、凱旋した秀長はのちに大和郡山城主として紀伊・和泉・大和を領しました。
九州征伐のおり、秀長は真っ先に和議をすすめ、島津家久もそれに応じました。この和議の件で秀吉は秀長の独断専行と叱っていますが、秀吉自身はじめから和議を望んでいました。
3.晩年
秀長四八歳は大納言に叙任され、太政大臣となった兄秀吉は豊臣の姓を賜りました。
小田原の戦いでは病床にあった秀長。秀吉が北条氏を討って、天下を平定した半年後の天正一九年(1591)正月二二日に病のためこの世を去りました。享年五二。
秀吉は弟の死を知ったとき、片腕を失ったと号泣しました。秀長は私欲がなく、いくさにあっては秀吉の名を立て、危険を顧みず、温厚な性格で経済感覚も優れていました。
また、秀吉の朝鮮出兵には反対で、秀長が最大の歯止め役となっていました。かくして秀長死後、秀長派の千利休も後を追うように死去すると、朝鮮出兵が現実化していくのでした。
妻のお藤(光秀尼)は、秀長の参詣先で見染められ、大和郡山城に迎えられました。養子の秀保が死去すると、城を出て興福院で再び出家。秀長・秀保の菩提を弔いました。享年七一
豊臣秀長 相関図
豊臣氏
- 秀長家老:藤堂高虎
秀吉軍団
参考文献
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「秀吉の弟、秀長は天下とりの懐刀」191頁
- 三鬼清一郎「羽柴秀長」『国史大辞典11』(吉川弘文館1989年)535頁
- 羽生道英「豊臣秀長」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)186頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「豊臣秀長」244頁
- 歴史雑学研究会 編さん『図解!名将を支えた軍師たち』(綜合図書、2007)