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戦国武将解説

加藤清正(かとう-きよまさ)

プロフィール

加藤清正
Kiyomasa Kato

肥後熊本城主。通称は虎之助。

文禄・慶長の役で日本軍のシンボリックな存在。

文禄の役では第二軍として出兵。第一軍の小西行長と都・ソウル入りの先陣争いをし、また朝鮮第一の大寺・仏国寺は焼き払った。

ソウル制圧後、鍋島直茂と共に東に北上して咸鏡道を制圧。朝鮮二王子を捕え、明との国境・オランカイまで侵攻したが、義兵抗争が激化すると咸鏡道は統治不能となり撤退した。

慶長の役では、清正はもはや明・朝鮮側では絶対に生かしちゃおけねえ存在となっていた。

よって明の楊鎬と麻貴は、清正に狙いを定めて年の暮れに朝鮮軍の権慄らと共に六万の大軍で蔚山倭城を包囲

これにより城内の清正以下二千は飢えさと寒さに苦しめられ、清正、旧正月と共に人生最大のピンチを迎える――

享年50(生1562-没1611)。豊臣秀吉より25歳年下。石田三成より2歳年下。

詳細

1.賤ヶ岳はほんの準備体操

文禄年間九州の諸大名地図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

加藤清正加藤清正は尾張国生まれで、豊臣秀吉豊臣秀吉の遠い親戚であり、小さい頃から秀吉に仕えてきました。

天正一一年(1583)二二歳の時、賤ヶ岳の戦い(柴田勝家柴田勝家VS羽柴秀吉)では福島正則福島正則加藤嘉明加藤嘉明脇坂安治脇坂安治らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人として勇名を馳せ、秀吉の九州制圧後に肥後半国一九万二千石を得ました。

しかしここまでは豊臣の槍働きの一人でしかありません。彼が豊臣の槍働きの代表的な存在となるのは、このあとに起こった朝鮮侵攻によるものでした。

2.朝鮮第一の大寺を焼き払う

朝鮮全土_文禄の役緒戦
図2:文禄の役 日本軍進路
第二軍の清正はオランカイまで侵攻

豊臣秀吉豊臣秀吉日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月十三日に第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智らが釜山(プサン)に上陸。破竹の勢いで北上しました。

朝鮮軍はこれら日本軍を制止できず、国王・宣祖柳成龍らを従えソウルを脱出して平壌(ピョンヤン)へ避難。

第二軍の清正三一歳は、朝鮮第一の大寺・仏国寺の伽藍を焼き払って、第一軍の小西行長・宗義智と五月三日にソウルへ入りました。

しかし清正は五月二日にソウル入りと肥前・名護屋日本本営に報告。清正は行長と先陣争いをしていた為、虚偽の報告をしたのです。

こうして日本と朝鮮及び清正と行長の戦いの火蓋が切って落とされました。

3.咸鏡道で朝鮮二王子を捕らえる

日本軍はソウルから北上して臨津江と開城も制圧すると、第一軍の小西行長・宗義智と第三軍の黒田長政黒田長政は平壌を目指して西北に兵を進め、第二軍の清正・鍋島直茂鍋島直茂(五五歳)は咸鏡道(ハムギョンド)を目指して東北に兵を進めます。

この時の清正について、柳成龍著の『懲毖録(ちょうひろく)』によれば、「清正は安城(アンソン、京畿道南部・図2参照)の住人二人を捕えて道案内をさせようとしたが、二人はこの土地で成長したので北路のことはよく分からないと拒絶した。清正はその場で(一人)を斬り、もう一人が恐れて先導を申し出」ました。

清正の咸鏡道支配
図3:清正の咸鏡道支配

清正・直茂らはソウル制圧から二か月後の七月半ばには、咸鏡道も制圧。

ここは清正曰く「日本にて八丈が島、硫黄が島などの様なる流罪人の配所(清正高麗陣覚書)」により、国王に反発を抱く土地柄でした。

そんなこともあって、咸鏡道の官吏・鄭末守(チョンマルス)は、会寧(フェリヨン)で、朝鮮二王子臨海君(イムヘグンソン)と順和君(スンファグンジク)を捕らえて清正に突き出します。

これにより清正は何もしないで二王子を捕らえたのでした。

3.オランカイへ侵攻

同年七月末から八月末にかけて清正は、明への道を探る為にオランカイに入ります。オランカイは中国東北部(満州)にあたる場所で、この頃は女真族が暮らしていました。

清正はオランカイや咸鏡道北部一体を支配するつもりでしたが、地質が悪く物資も乏しいため、諦めて咸鏡道南部支配に徹することにします。

清正は安辺(アンビョン)に、直茂は咸興(ハムフン)に本陣を置き、それより北は清正軍に寝返った在地の士官に在番させることにしました。

それにしても清正の咸鏡道支配は年貢の取り立ては厳しく、おまけに咸鏡道の日本軍は城の外で略奪を重ねていました。

義兵の抗争

4.義兵、立ち上がる

朝鮮全土に目を向けると、慶尚道で郭再祐率いる最初の義兵が立ち上がったのを皮切りに、各地で義兵活動が活発化。

清正の圧政に苦しむ咸鏡道も例外ではなく、鄭文孚(チョン・ムンブ)が咸鏡道北部・鏡城(キョンソン)で義兵を挙げて鏡城を奪還すると、会寧でも義兵が立ち上がり、直茂本陣が置かれた咸鏡道南部・咸興でも義兵抗争が展開されました。

同年十月には、鄭文孚の義兵は清正支配の最北・吉州(キルジュ)城を取り囲みました。

直ちに救援に向かいたい清正でしたが安辺の清正本陣には朝鮮二王子がいて下手に動けず、吉州に多くの兵を割くほどのゆとりもありません。

吉州の日本軍は籠城することとなり、清正が救出するまで翌年の一月まで続き、こうして清正と直茂の半年に渡る咸鏡道支配は失敗に終わったのでした。

虎

5.一時休戦時に虎狩り

その頃、小西行長は平壌で明将の李如松に敗退。海上では日本水軍が李舜臣李舜臣率いる朝鮮水軍に連戦連敗。清正軍だけでなく日本は劣勢に大きく傾いていました。

既にソウルに帰陣していた行長は、明の沈惟敬と和議を進めますが、咸鏡道からソウルに帰陣した好戦家・清正はこれに反発します。

しかし和議の流れを止められず、和議は成立して文禄二年(1593)四月、明は遼東への撤収し使節を日本へ派遣。清正は朝鮮二王子を返還し、日本軍は釜山まで撤退することになりました。

明・朝鮮と日本の一時休戦に入り、清正こと虎之助の有名な虎狩りはこの時に行われました。理由は単なる暇つぶしです。

6.黄石山の戦い

加藤清正_慶長の役
図4:慶長の役 日本軍進路図_右軍

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより三六歳の清正は、小西行長と一番隊と二番隊と二日交代で務めることになりました。

これに対して明は、朝鮮に援軍を再派遣。指揮官には経略・邢玠と楊鎬、提督・麻貴らがいました。

同年八月はじめ、朝鮮の日本軍は軍全体を左右に分けて、宇喜多秀家宇喜多秀家を総帥とする左軍の小西行長・島津義弘島津義弘らは穀倉地帯の全羅道へ。毛利秀元毛利秀元を総帥とする右軍の清正・黒田長政らは首都ソウルを目指して兵を進めました

右軍先鋒の清正は、同月十七日、慶尚道・黄石山(ファンソクサソン)城をあっさり落としました。その頃、左軍は明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を落とし、秀吉の命令によって日本軍による大量殺戮と鼻切りを行いました。

経略・楊鎬はこの頃、平壌にいましたが、事態の深刻化を受けソウルに南下。楊鎬から日本軍のソウル侵入を稷山(チクサン)で阻止するよう指令された明軍は、北上してきた黒田長政・毛利秀元ら軍を迎撃しソウル侵入を阻止しました。

7.蔚山倭城の工事

倭城分布図_慶尚道南東海岸
図5:倭城分布図_慶尚道南東海岸

同年十一月より清正・浅野幸長浅野幸長らは、慶尚道・蔚山(ウルサン)に倭城の築城工事をスタートさせました。

この普請は医僧・慶念の日記によると「日本から連れてきた農民を朝から晩まで城普請の材木採りに駆り立て、その労役を怠ったり、逃走する者あらば首枷をかけ焼金(火印)をあてる、またはその首を斬る」という過酷さでした。

明の邢玠・楊鎬・麻貴の次の狙いは、日本軍のシンボリックな存在・清正。これに都元帥・権慄も朝鮮軍を率いて加わり同年十二月二三日、明・朝鮮連合軍六万の大軍が日本軍二千余が籠る普請半ばの蔚山倭城を囲みました

8.蔚山籠城戦

蔚山の戦い
図6:蔚山の戦い
明・朝鮮連合軍、城を包囲し外廓を突破

しかしこの時、清正は西生浦(ソセンポ)倭城にいて、蔚山の急を聴いて西生浦から船で急ぎ駆けつけ、二四日に蔚山倭城に入りました。

明・朝鮮連合軍に水道を立たれた城中は水も米もなく困窮し、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出。

絶体絶命の清正は、楊鎬の指令の元、降倭・沙也可が持ちかけた和議に乗ろうとしました。しかし、年明け正月二日に毛利秀元毛利秀元黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂加藤嘉明加藤嘉明長宗我部元親長宗我部元親ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。

五日、楊鎬が全軍に撤退命令を出して十日余続いた蔚山の戦いはついに終了。この戦いにより日本軍は一気に戦線縮小・撤退案に傾いていきました。

同年(慶長三年)八月には秀吉が死去。日本軍の帰国が始まると、日本軍追撃戦として同年十一月に朝鮮水軍の李舜臣と明水軍の陳璘が、露梁(ノリャン)で島津義弘・立花宗茂立花宗茂らの水軍を撃破して、七年にも及ぶ朝鮮の役はようやっと幕を閉じました。

9.晩年

熊本城
図7:熊本城

帰国後、関ヶ原の戦いで三九歳の清正は石田三成石田三成嫌いのこともあり、徳川家康徳川家康率いる東軍の側に付き、九州で立花宗茂立花宗茂などと戦い、その功により肥後二万石の大大名任ぜられました。

秀吉の遺児・豊臣秀頼豊臣秀頼を守る為、清正は常に秀頼の傍にいて、慶長一六年(1611)秀頼の二条会見に随伴して家康との会見も無事に終わると、その二ヶ月後に死去しました。享年五〇。

一説によると、徳川方の毒殺によるものとも言い、また豊臣と徳川の板挟みで晩年はかなり疲弊したとも言われています。

どちらにせよ徳川にとって豊臣最右翼の加藤・福島・黒田は最も危険な外様だったので、加藤家は清正と息子の二代でお家取り潰しとなりました。

清正の熊本城は見事なのもので、あの厳しさと重厚感のある美しさは偽者には造ることができないと思われます。

しかし文禄・慶長の役での、清正の容赦のなさはどこから来るのか。単純に悪い人間が悪いことをやったと斬り捨てることができない、心の問題として決して忘れることができない人物と言えるでしょう。

加藤清正相関図

主君

豊臣秀吉豊臣秀吉豊臣秀頼秀頼

幼馴染み

福島正則福島正則加藤嘉明加藤嘉明

咸鏡道支配

相方:鍋島直茂鍋島直茂

蔚山の戦い

相方:浅野幸長浅野幸長

救援軍:毛利秀元毛利秀元黒田長政黒田長政・鍋島直茂・加藤嘉明・長宗我部元親長宗我部元親

ライバル

ご近所の小西行長小西行長も幼馴染みの石田三成石田三成も大っ嫌い。

蔚山の戦いでは明の楊鎬・朝鮮の権慄・降倭沙也可に追い詰められました。

  

加藤清正関連リンク

肖像画素材蛇目紋

イラスト:with行長POPwith李舜臣 行長ほっこり

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

参考文献

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)

上垣外 憲一『空虚なる出兵―秀吉の文禄・慶長の役 (Fukutake Books) 』(福武書店、1989年)

柳 成竜 (著), 朴 鐘鳴 (翻訳)『懲毖録 (東洋文庫 357)』(平凡社 、1979年)