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戦国人物解説

伊達政宗(だて-まさむね)奥州仕置と朝鮮出兵への忖度

目次

プロフィール詳細:1.小田原参陣 2.奥州仕置

3.朝鮮渡海 4.晩年相関図補註参考文献関連記事

プロフィール

伊達政宗
Masamune Date

仙台藩祖。幼名・梵天丸(ぼんてんまる)。通称・独眼竜。血液型B。

全国制覇を目指す秀吉から、再三上洛を促されるが全て無視。小田原の北条氏同様、秀吉の私闘禁止令(惣無事令)も無視。

遅ればせながら小田原合戦へ参陣、許しを得る。参陣しなかった、現在の岩手・宮城県にあたる葛西・大崎氏の所領は没収された。

秀吉は、これを政宗にではなく直臣の木村吉清に与える。吉清の治世は非道極まり、葛西・大崎一揆が起り、政宗には謀反の噂が立つ――。果たしてこの人の本意は何処にある!?

享年70(1567-1636)。真田幸村立花宗茂姜沆と同い年。

詳細

1.わけさわがんね小田原参陣

伊達政宗伊達政宗は何したのかよくわからなくても、三日月兜と独眼という風貌で有名な武将

伊達氏一六代・輝宗の長男として米沢城(山形県)に生まれた政宗は、幼い時に疱瘡(ほうそう)を病み、右眼を失明。一八歳で家督を継ぎました。

野心家の政宗が小大名を次々と攻略していく中、待ったをかけたのが、九州攻めを終えて全国制覇を目指す豊臣秀吉豊臣秀吉でした。

秀吉は再三上洛を促しましたが、政宗はこれを全て無視。そればかりか小田原の北条氏政北条氏と同様に、秀吉の私闘禁止令(惣無事令)も無視。天正一七年(1589)六月、突如、会津に侵攻して摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名氏を滅ぼしてしまいました。

秀吉は小田原に侵攻。天正一八年(1590)六月五日、政宗二四歳は小田原に参陣。私は首をはねられても仕方ありませんという意味で、わざわざ白装束を身にまとって秀吉に遅参を謝罪。それが何故かウケた秀吉から、本領はおおむね安堵されました。

2.奥州仕置

伊達氏と葛西・大崎氏

天文期頃の宮城県(葛西・大崎・伊達氏)勢力図
図1:天文期頃の宮城県_勢力図

戦国時代の宮城県は、南に伊達氏、北に大崎氏、東北に葛西氏という大勢力がありました。

葛西氏は北上川中心に、牡鹿(おしか)郡から岩手県の胆沢(いさわ)郡にまで及ぶ広大な領域の大名。大崎氏は奥州探題職(たんだいしき)を世襲して、その求心力を以て大崎五郡を領有。

戦国時代末期、南奥すなわち福島県から宮城県一帯におよぶ地域は、政宗によってほぼ統一されており、独立していたのは福島県の相馬氏ぐらいでした。

仕置の始まり

小田原合戦のあと秀吉は、会津下向の途中の宇都宮で、小田原に参陣しなかった葛西・大崎氏の所領没収のことを決定。

ただちに直臣の木村吉清(よしきよ)を派遣し、それに浅野長政浅野長政石田三成石田三成蒲生氏郷蒲生氏郷らを加えて仕置を開始。政宗はその案内を命じられました。

ところで政宗による南奥統一のもとにあった葛西・大崎氏は、個別に小田原に参上することを政宗に抑止されていたのでした。一方秀吉は、没収した葛西・大崎領を政宗にではなく、木村吉清に賜与(しよ)。また、このときの仕置は秀吉の指示どおり、検地・刀狩を伴うものでした。

葛西・大崎一揆

それにしても木村吉清の治世は非道極まり、葛西・大崎一揆が起りました。

一揆は最初、葛西領の胆沢郡柏山(岩手県金ヶ崎町)におこり、木村吉清の家臣が殺され、気仙郡および磐井郡東部に広がり、また江刺郡でも蜂起。大崎領では天正一八年(1590)一〇月一六日に、岩手沢(いわてさわ:岩出山町)で最初の蜂起がありました。

一揆勢に攻めたてられた木村吉清・吉久父子[]は、栗原郡佐沼城で籠城を強いられ、一揆討伐の目標はまず木村父子の救出に絞られ、政宗によって行われました。その過程で伊達家家臣の須田伯耆(ほうき)という者が政宗の謀反、一揆勢への同意を蒲生氏郷に密告。

直ちに秀吉のもとへ通報され、政宗は今度は大きな金箔の十字の柱を引っ下げて上洛。この十字で私を磔(はりつけ)にしてくださいと。白装束に続いて、これまた秀吉にウケて許されました。

再討伐

米沢に帰った政宗は、翌年六月一四に葛西・大崎の再討伐に出陣。昨年冬にはじまった九戸政実の乱の討伐を含む、豊臣秀次豊臣秀次を主将とする大討伐軍でした。

また、戦いは秀吉の指示通り撫(な)で斬り。かくして同月の宮崎城(宮崎町)での戦い後は、城主や主だった人々の首八一ほか、一三〇人分の耳鼻が目録とともに京都に送られました。

一揆の抵抗は佐沼城(佐沼町)の戦いに終わりました。そのあと政宗は一揆勢のうち、主立った城持ちの人々を一か所に集め、秀次の意見を聞いたうえで、全員の首を切ってしまいました。首は塩漬けにして京都に送られました。

木村吉清は救出されたものの改易、葛西・大崎の旧領は氏郷と政宗に恩賞として与えられました。二分して六郡、加増でしたが政宗は居城のある本領を失い、九月二三日、米沢城主だった政宗は岩手沢城(のちの岩出山城)に入部。仙台に移るまで一二年間、この城に住みました。

2.朝鮮渡海

文禄の役 合戦地図
図2:文禄の役 合戦地図

朝鮮出兵において政宗二七歳は、秀吉に対する忠勤を表現するためか、関東・東北の大名は渡海しなくてもいいのにわざわざ渡海。

かくして前年金時敏に敗れた晋州城再攻撃のため、浅野長政・毛利秀元毛利秀元らとともに増派軍として戦うこととなりました。

これにより文禄二年(1593)六月、加藤清正黒田長政鍋島直茂島津義弘および政宗ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

晋州城は陥落し、朝鮮の主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

しかし制海権は李舜臣李舜臣の活躍により朝鮮側に握られており、兵糧の補給路も断たれたため、日本軍は撤兵するしかありません。あまつさえ、次々と船舶を失った日本軍は撤兵のための船に事欠くのでした。

4.晩年

関ヶ原の戦いにおいて、政宗三四歳は東軍として国元を動かず上杉景勝上杉景勝と戦い、徳川家康家康を支援。功により六二万与えられました。また居城を仙台に移し、奥州の地盤を確実に固めていくことに努めました。

そして慶長一八年(1613)九月、政宗四七歳は洋式の巨大な木造船を建造。太平洋貿易に乗り出すため、家臣の支倉常長四三歳を遣欧使節としてローマに派遣しました。

家康・秀忠・家光の三代の信任を得て、畳の上で人騒がせな生涯を閉じました。享年七〇。遺品は伊達男らしく、水玉の陣羽織、金のブローチ、鉛筆などがあります。

伊達政宗 相関図

伊達氏:陸奥守護

  1. 曾祖父:稙宗(たねむね)。伊達氏一四代。
  2. 祖父:晴宗
  3. 父:輝宗(晴宗次男)、母:義姫(最上義光の妹)

家臣

  • 叔父:留守政景(晴宗三男)・石川昭光(晴宗四男)
  • 従弟:伊達成実(母は晴宗娘)

妻妾:八人

  • 愛姫(めごひめ):福島の豪族・田村清顕の娘。一一歳で一二歳の政宗に嫁ぐ。

  • 秀宗:長男。母は新造の方。宇和島藩初代。
  • 忠宗:次男。母は愛姫。仙台藩主二代。
  • 宗勝(兵部):一〇男。伊達騒動の中心人物。
  • 五郎八(いろは):忠宗の同母姉。

一門外

片倉景綱:米沢八幡宮の神主・片倉景重の子。政宗側近。関ヶ原の戦い後、白石城主。一万三〇〇〇

ライバル

その他

補註:木村氏

木村吉清・吉久父子は、どういう身分の者か詳らかでない。

「氏郷記」によれば木村氏は明智氏の旧臣で、蒲生氏郷の推挙によって大名になり、早くから秀吉の側近として政宗の参礼について奔走。奥州仕置に当たっても、浅野長政の下で政宗の指南を勤めていた。その功績によって葛西大崎十二郡を与えられたが、もともと小身であり、譜代の家臣等も多くなかった[文献3]。

参考文献

  • 大石直正「5章3 葛西・大崎一揆」・渡辺信夫「6章1 仙台開府」『宮城県の歴史(県史4)』(山川出版社、1999年)133(戦国期宮城の勢力分布図)、141-152頁
  • 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「伊達政宗」94-97頁
  • 黒田和子『浅野長政とその時代』(校倉書房、2000年)「第九章 葛西大崎一騎」219頁

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