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戦国武将解説

小早川隆景(こばやかわ-たかかげ)

プロフィール

小早川隆景
Takakage Kobayakawa

筑前・筑後(福岡県西部)の戦国大名。幼名は徳寿丸。毛利元就の三男。

小早川氏の養子となり小早川氏を継ぐが、元就死後は兄・元春と共に、宗家当主・輝元の補佐し、毛利両川として毛利氏を盛り立てた。

文禄の役では、第六軍として立花宗茂と共に朝鮮へ出兵

ソウル制圧後、南下して全羅道侵入を目指したが、錦山(クムサン)で義兵将・郭再祐金誠一及び官軍・権慄らの朝鮮連合軍の迎撃に合い、敗退した。

翌年の正月、ソウルの日本軍の襲撃を目指して平壌から南下してきた提督李如松率いる明軍を碧蹄館で宗茂らと共に撃退。

しかし今度は、李如松南下に呼応して権慄が朝鮮軍を率いて北上。ソウルの日本軍に再び危機が訪れる――

享年六五(生1533-没1597)。織田信長より一歳、豊臣秀吉・権慄より四歳年上。石川数正と同い年。

詳細

1.村上水軍を束ねる

天正期の瀬戸内海周辺諸国地図
図1:天正期の瀬戸内海周辺諸国

小早川隆景隆景は、毛利元就毛利元就の第三子として、安芸国(現・広島県)に生まれました。

長兄・隆元は毛利家を継ぎ、次兄・元春は吉川氏の養子に、隆景は僅か一二歳で安芸国(広島県)の小早川氏の養子になりました。

弘治元年(1555)、毛利軍VS陶晴賢軍の厳島の戦いで隆景は、村上水軍を見方につけて毛利氏の勝利に貢献。

長兄・隆元が四一歳の若さで死去し、その八年後に父・元就が七五歳で死去すると、元春・隆景は、隆元の遺児で宗家当主・毛利輝元毛利輝元の補佐し毛利両川として毛利氏を盛り立てていきました。

天正四年(1576)二月、織田信長織田信長に追われた第一五代将軍・足利義昭足利義昭を迎えた輝元は、石山本願寺と結んで信長との対決を決意。

信長が本願寺を攻めると、隆景は再び村上水軍(能島・因島)を味方につけて、同年七月に毛利水軍は織田水軍を破って石山城に兵糧を運び入れることに成功しました(第一次木津川口海戦)。

しかし二年後、信長方の九鬼嘉隆九鬼嘉隆が甲鉄軍艦六隻を中心にした水軍が、本願寺を守る毛利水軍を攻めると無敵の毛利水軍は敗れました(第二次木津川口海戦)。

2.秀吉に恩を売る

文禄年間 九州諸大名配置図
図2:文禄年間 九州諸大名配置図

本能寺の変の際、毛利氏は豊臣秀吉羽柴秀吉軍と対峙していましたが和睦し、秀吉は織田信長を討った明智光秀を討伐しにいきます。毛利氏では後ろから秀吉を討ってはという声もありましたが、隆景はそれを諌め、秀吉を上方にいかせてあげました。

これにより秀吉が天下を取ると、隆景は秀吉に大変感謝され厚遇されました。

また、秀吉の天下取りの過程で、四国征伐に協力した功により伊予国三五万石、九州征伐にも先鋒を務めた功により伊予を転じて筑前・筑後両国(福岡県西部)が与えられました。

しかし次兄・元春は九州征伐の陣中で五七歳の生涯を閉じました。

3.錦山(クムサン)の戦い

小早川隆景の進路と錦山の戦い
図3:文禄の役 日本軍進路と国王避難路

秀吉の明国制圧の野望により文禄元年(1592)年四月に文禄の役が始まると、おん歳六〇の隆景は第六軍として二八歳の立花宗茂立花宗茂と共に朝鮮へ出兵しました。

日本軍は破竹の勢いで朝鮮を北上し、都ソウル・漢城を制圧。隆景はソウルから南下して、秀吉に指示されていた担当区域の全羅道(チョルラド)侵犯を目指しました。

朝鮮陸軍が日本陸軍に次々と敗れる中で、李舜臣李舜臣が水軍を率いて巨済島・玉浦(オクポ)で藤堂高虎藤堂高虎の水軍を撃破し、その後も日本水軍を連戦撃破。

陸では次第に各地で義兵活動が活発化していきました。

そして同年七月九日、義兵将・郭再祐金誠一及び官軍・権慄らの朝鮮連合軍が、錦山(クムサン)で全羅道に侵入した隆景ら日本軍を撃退しました。

この錦山の戦いを皮切りに陸上戦の流れが変わり、翌文禄二年(1593)年正月には提督李如松が明兵四万を率いて、小西行長小西行長宗義智宗義智らが籠る平壌城を撃破。小西・宋ら日本軍はソウルへと逃れました。

4.碧蹄館の戦い

碧蹄館の戦い
図3:碧蹄館の戦い

この勢いに乗ったは李如松は、ソウル襲撃を目指して南下。

日本軍は、これを迎撃するため宇喜多秀家宇喜多秀家を総帥とした同一月二十七日にソウル北西18km地点の碧蹄館(ピョクジェグアン)で、明軍と戦闘になりました。

碧蹄館は、明の使節がソウルに訪れる前日に必ず宿泊して長夜の宴を行う所です。

立花宗茂立花宗茂は先鋒として午前中に二〇〇〇余の敵を討ち取り、目覚ましい活躍をしました。お昼ごろには隆景ら日本軍が碧蹄館に到着し、戦闘に加わりました。

明軍は劣勢となり李如松本隊が後退し始めると、宗茂は追撃すべしと主張。しかし隆景は深追いは無用として宗茂の追撃を制止。

明軍の後方部隊は強力な大砲を持っており、反撃の危険性もあり、隆景の判断は妥当でした。

一方、李如松南下に呼応して朝鮮軍の権慄が南から北上。ソウルの日本軍は今度は、幸州(ヘンジュ)山城で権慄率いる朝鮮軍と戦闘になりしたが隆景ら日本軍は敗退。日本軍はソウルからの撤退を決定しました。

5.第二次晋州城の戦い

文禄の役 終盤戦
図4:文禄の役 終盤戦

しかし秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていました前年に敗れた晋州城再び攻撃することを厳命しました。

これにより文禄二年(1593)六月、第一隊の加藤清正加藤清正黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂島津義弘島津義弘、第二隊の小西行長小西行長宗義智宗義智細川忠興素材細川忠興伊達政宗伊達政宗浅野長政浅野長政黒田官兵衛黒田官兵衛、第三隊の宇喜多秀家宇喜多秀家石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継、第四隊の毛利秀元毛利秀元、第五隊の隆景・立花宗茂立花宗茂ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

十一日間の激戦の末、晋州城陥落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

6.最期まで秀吉に振り回される

その後、隆景は病を患って帰国。また、第二次晋州城の一か月半後、秀吉の側室・淀殿が秀頼を出産。正室・北政所の兄の子である羽柴秀秋は秀吉の養子でしたが、秀吉は秀秋が疎ましい存在になり、秀秋を毛利輝元毛利輝元へ養子にやることにしました。

実家の毛利氏に一滴たりとも、よその血を入れたくない!そう思った隆景は小早川家に秀秋を迎えることに成功。ここに関ヶ原の戦いで裏切り扱いで注目を集める小早川秀秋小早川秀秋が誕生しました。

文禄四年(1595)に六三歳の隆景は五大老に就任しましたが、病気の為に備後国(広島県)三原に隠退し死去しました。享年六五。

秀吉に振り回されまくった人生で聡明な武将だっだけに、いろいろと勿体ないですね。碧蹄館の戦いで立花宗茂を制止したように、秀吉の明国制圧の野望自体を制止してほしかったなあ。

小早川隆景相関図

家族

お父さん: 毛利元就毛利元就/お兄ちゃん:毛利隆元・吉川元春

養子: 小早川秀秋小早川秀秋/甥っ子:毛利輝元毛利輝元毛利秀元毛利秀元 

国内のライバル

尼子経久陶晴賢宇喜多直家織田信長織田信長九鬼嘉隆

運命共同体

文禄の役@第六軍の立花宗茂立花宗茂

錦山の戦い

ライバル:郭再祐金誠一・の権慄

碧蹄館の戦い幸州山城の戦い

ライバル:明軍の李如松(碧蹄館の戦い)、朝鮮軍の権慄(幸州山城の戦い)

ソウルの日本軍:宇喜多秀家宇喜多秀家黒田長政黒田長政石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継小西行長小西行長立花宗茂立花宗茂ら

幸州(ヘンジュ)山城

ライバル:全羅巡察使権慄2,300人

  

小早川隆景関連リンク

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文禄・慶長の役

相関図

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慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

参考文献

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)