戦国サプリメント

戦国未満

  1. HOME
  2. 戦国武将一覧

戦国武将解説

権慄(クォン・ユル/ごんりつ)

プロフィール

権慄
권율
Kwan Yul

朝鮮全軍 最高司令官(都元帥)。

豊臣秀吉の命により文禄元年四月、日本軍朝鮮へ侵攻すると、李舜臣は海で、権慄は陸で日本軍撃退を目指す。

戦争が始まった当初、権慄ら朝鮮官軍は龍仁で脇坂安治軍に完敗。しかし全羅道に侵入して来た小早川隆景軍は義兵らと共に撃退。

これを皮切りに本領発揮。幸州(ヘンジュ)山城の戦いでは、朝鮮軍1万を指揮して宇喜多秀家ら日本軍3万に完勝した。

一時休戦を経て日本軍再び朝鮮に侵攻。日本軍北上を防ぐため、加藤清正蔚山倭城を明・朝鮮連合軍で包囲して清正を苦しめた。

秀吉死後、小西行長が籠る順天倭城を明軍と李舜臣と共に陸海から挟撃するが、明将の劉綖が戦意喪失。朝鮮軍は再び窮地に陥ってしまう――

享年63(生1537-没1599)。李舜臣より8歳年上。豊臣秀吉と同い年。

詳細

1.最初の挫折

朝鮮全土_龍仁、錦山の戦い
図1:文禄の役 朝鮮全土関係図
日本軍進路主な戦い

権慄は慶尚道安東の人で、父の轍は領議政(宰相)にもなった人物。

四六歳で文科に合格し、全羅道光州牧使の時に豊臣秀吉豊臣秀吉の明国制圧の野望により、日本軍朝鮮へ侵攻しました。

文禄元年(1592)四月十三日、第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智が釜山に上陸。僅か二十日で首都ソウル・漢城を制圧しました。

日本軍に次々と敗れる中で、李舜臣李舜臣が水軍を率いて巨済島(コジェド)の玉浦(オクポ)で藤堂高虎藤堂高虎の水軍を撃破し、朝鮮軍最初の一勝を挙げると、その後も次々に海上で日本軍を撃退しました。

しかし陸上ではいまだ苦しい戦いが続いていました。

都の漢城が落ちると、全羅(チョルラ)・忠清(チュンチョン)・慶尚(キョンサン)三道連合軍が首都回復の為、北上したので権慄五六歳も加わりました。

しかし京畿道(キョサンド)・龍仁(ヨンイン)で脇坂安治脇坂安治らの日本軍に敗北しました(龍仁の戦い)。

2.李舜臣が閑山島でカタキを撃つ

その約一か月後、龍仁の戦いで華々しい成果を挙げた脇坂安治は、李舜臣に連敗している日本水軍の救世主として南下。秀吉も脇坂なら、と大いに期待していました。

しかし朝鮮の海に現れた脇坂は、おとり船で閑山島(ハンザンド)に誘い出すという李舜臣の策にハマります。結果、脇坂は九死に一生を得、日本水軍は朝鮮水軍にまたも敗北するのでした(閑山島の戦い)。

3.権慄、小早川隆景を撃退す

こうなれば朝鮮陸軍も負けてはいられません。

龍仁の戦い敗北後、逃れ帰った権慄は、全羅道で軍を集め節制使となり、全羅道に侵入して来た小早川隆景小早川隆景を全羅北道錦山で義兵将・郭再祐、招諭使・金誠一と共に撃退(錦山の戦い)。

この功により権慄は全羅道観察使に任命されました。

4.小西行長の平壌脱出と李如松の逃走

文禄の役の終盤戦
図2:文禄の役 終盤戦

さて、第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智は、都・漢城を制圧すると北上して平壌(ピョンヤン)も制圧、平壌城に留まりました。

その後、朝鮮からの援軍要請により明の李如松が四万の兵を率いて平壌城を包囲。城内の日本軍一万と戦闘となりました。

明軍の圧倒的な兵の数と大砲の威力に日本軍は敗北し、小西・宋らは敗走。

この勢いに乗ったは李如松は、南下して都・漢城の襲撃を目指し、権慄ら南部朝鮮の諸将は北上して挟撃を試みました。

しかし、小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂らソウルの日本軍が碧蹄館(ピョクジェグアン)で李如松の軍を迎撃し、李如松の軍は敗れて退却しました。

5.幸州山城の戦い

幸州山城の戦い
図3:幸州山城の戦い

これにより挟撃作戦は水に流れ、権慄率いる朝鮮軍は単独で日本軍と戦うこととなりました。

権慄は都・漢城から僅かに離れた幸州(ヘンジュ)山城に入って(図2参照)、 城塁を修理し、重柵を造って防備を固めました。

孤軍に何ができるのかと、宇喜多秀家宇喜多秀家小西行長小西行長石田三成石田三成黒田長政黒田長政小早川隆景小早川隆景等ソウルの日本軍三万は漢城(ハンソン)から出陣して幸州山城を包囲。

これに対し、城中の兵は一万しかいませんでしたが、善戦してこれを防ぎ、宇喜多秀家・吉川広家は重傷を負いました。その上、京畿水使・李蘋(りひん)が江華島から漢江をさかのぼって来援。

日本軍は背後を断たれることを恐れ、囲みを解き、朝鮮軍が大勝利を収めました。この功により権慄は、有事の際、朝鮮全国の軍隊を統括する臨時職・都元帥に就任しました。

6.元均に杖罰

慶長の役_主な戦い
図4:慶長の役_主な戦い

このあと日本との一時休戦に入りますが、李舜臣は権慄の元で白衣従軍(一兵卒)として過ごしていました。李舜臣の同僚の元均が李舜臣を陥れ、水軍統制使の職を奪ってしまったのです。

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定めました。李舜臣の代わりに水軍統制使となった元均は、同年六月に安骨浦・加徳島の日本軍を攻撃しましたが敗退。

その一か月後、慶尚右水使・裵楔(ペソル)が藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明ら日本水軍に敗退。この時、元均は出陣しませんでした。

李舜臣を引きずり落として貴様は何なのだ!と権慄は元均をとがめ、杖罰を施し前進するよう命令。その四日後、元均は憤懣(ふんまん)やるかたなく、再び朝鮮水軍を率いて日本水軍に対峙しました。

しかし無策の為、朝鮮水軍は漆川梁で日本水軍に大敗退、元均は敗死しました。権慄は元均の敗報を聴くや、朝廷が李舜臣を水軍統制使に復帰させる前に「既に李舜臣を行かせて残余の兵を収拾させていた(柳成龍懲毖録』)」

水軍統制使に再任した李舜臣は、兵船が十三隻しか残されてない絶望的な状況の中、潮の流れを研究して同年九月、鳴梁海峡に日本水軍一三三隻をおびきよせ、奇跡的な勝利を収めました。

7.蔚山の戦い

倭城分布図_慶尚道南東海岸
図4:倭城分布図_慶尚道南東海岸

一方の権慄は同年暮れに、明の経略・楊鎬、提督・麻貴らと共に、普請半ばの蔚山倭城を包囲し、水道を絶ち、城内に踏ん張る加藤清正加藤清正浅野幸長浅野幸長を苦しめました。

しかし毛利秀元毛利秀元・黒田長政の救援軍が明軍の背後に迫っており、明・朝鮮軍は撤退。城は落とせませんでしたが、これ以降、日本全軍が一気に戦線縮小に傾いていきました。

続いて権慄は、明総兵官劉綖と水軍都督・陳璘、李舜臣と共に小西行長小西行長籠る順天倭城を水陸から挟撃する作戦に参加することになりました。

8.順天の戦い

順天の戦い
図5:順天の戦い

これにより翌九月二〇日、明軍の劉綖と陳璘、朝鮮軍の権慄と李舜臣の連合軍は、小西行長ら籠る順天倭城を水陸から挟撃。

しかし日本軍の応戦激しく、多くの明兵が喪失すると、劉綖は戦意を喪失し作戦を遂行しませんでした。

また水軍の陳璘は、戦う気概はありましたが引き潮になったことを告げた李舜臣の言葉も聴かず戦闘を続け、浅瀬に乗り上げてしまい朝鮮水軍の足を引っ張りました。

こうして順天倭城を落とせず、作戦は失敗に終わりました。

しかしその約二か月後、 李舜臣と陳璘が順天の小西行長を救援しに来た島津義弘島津義弘立花宗茂立花宗茂宗義智宗義智らの軍を露梁(ノリャン)で大いに破り、この戦争の最後を朝鮮・明連合水軍の大勝利で収めました。

この戦いで李舜臣は戦死、権慄は翌年死去しました。

柳成龍は『懲毖録(ちょうひろく)』の中で、日本軍再出兵の際、清正やら行長が南原を攻めようという噂に権慄以下みな退却し「ただ郭再祐だけが昌寧の火旺山城に入り死を期して守った」など、度々臆病な態度を取ったり、または元均などに無茶な命令を出す権慄に度々イラッとしています(笑)。

幸州の戦いの功績が大きなものだけに客観的にもズルッって感じですが(笑)、権慄はよくもわるくも李如松みたいなところがあります。

権慄相関図

宿敵

豊臣秀吉豊臣秀吉

文禄の役のライバル

龍仁の戦い(最初の戦い): 脇坂安治脇坂安治

錦山の戦い(全羅道侵入阻止):小早川隆景小早川隆景

幸州山城の戦い宇喜多秀家宇喜多秀家小西行長小西行長石田三成石田三成黒田長政黒田長政・小早川隆景

慶長の役

蔚山の戦い

味方:明経略楊鎬、降倭領将沙也可

ライバル:加藤清正加藤清正浅野幸長浅野幸長

順天の戦い

味方:朝鮮水軍李舜臣李舜臣、明総兵官劉綖・水軍都督陳璘

ライバル:小西行長小西行長

朝鮮国

王室:宣祖光海君/朝廷:柳成龍金誠一/陸軍:権慄・金時敏沙也可

水軍:李舜臣元均/義兵将:郭再祐/学者:姜沆

明国

万暦帝李如松沈惟敬楊鎬陳璘劉綖

  

権慄リンク

イラスト

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

詳細事項

村上水軍とは 前編後編日朝国交回復年表

参考文献

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

北島 万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆 (岩波新書) 』(岩波書店、2012年)

上垣外 憲一『空虚なる出兵―秀吉の文禄・慶長の役 (Fukutake Books) 』(福武書店、1989年)

柳 成竜 (著), 朴 鐘鳴 (翻訳)『懲毖録 (東洋文庫 357)』(平凡社 、1979年)