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戦国武将解説

小西行長(こにし-ゆきなが)

プロフィール

小西行長
Yukinaga Konishi

熊本県・宇土城主のキリシタン大名。教名・アゴスチーニョ。幼名・弥九郎。

文禄・慶長の役の日本側の主役的存在で、秀吉から先鋒隊兼外交を任される。

意外にも合戦にとても強く、僅か半月で首都ソウルを制圧。娘婿の宗義智らと更に北上して半年後には平壌も制圧。

しかし明の提督李如松が四万の兵を率いて平壌城を囲むと敗退してソウルへ帰陣した。これがきっかけとなり、明の沈惟敬と和議交渉が本格化。

主戦派・加藤清正を牽制しつつ、惟敬と図って秀吉の和議の文書を偽造。戦争中、和平実現のため誰よりも奔走した。

慶長の役では、朝鮮の居城・順天倭城から帰国しようとした時、李舜臣らに帰路を断たれて、朝鮮・明連合軍との最後の戦いに挑む――!

享年45(生1556?-没-1600)。藤堂高虎上杉景勝金時敏と同世代。

詳細

1.朝鮮の役の先鋒隊

文禄年間 九州諸大名配置図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

小西行長行長は堺の商人で豊臣秀吉豊臣秀吉の代官だった小西隆佐(りゅうさ)の子。

備前国岡山で宇喜多直家に取り立てられ、直家の子・宇喜多秀家秀家に仕え、本能寺の変後に秀吉に仕官。父・隆佐と共に「海の司令官」として瀬戸内海の軍需物質運搬などにあたり、佐々成政佐々成政失脚後に肥後半国一二万石を領しました。

しかし行長を待っていたのは、文禄・慶長の役。朝鮮語が堪能な行長は秀吉より先鋒(せんぽう)隊を仰せつかりました。

2.首都ソウル制圧

朝鮮全土_文禄の役緒戦
図2:文禄の役 朝鮮全土関係図
日本軍進路と国王避難路

文禄元年(1592)四月十三日、日本の諸将朝鮮へ侵攻

先鋒隊の行長(三七歳カ)は、娘のマリアの婿・宗義智宗義智と共に釜山(プサン)に上陸。

軍神の血祭りだと言って朝鮮の女男、犬猫まで無差別虐殺して、釜山鎮を陥落させました。

更に北上して、東莱(トンネ)・尚州(サンジュ)・忠州(チュンジュ)も制圧。

首都ソウル・漢城の朝廷はなすすべがなく、国王・宣祖は避難することとなり、 都を捨てて大雨の中を平壌(ピョンヤン)に向かいました。

これにより行長と第二軍の加藤清正加藤清正は、ほとんど無血のまま漢城に入城。

日本軍が朝鮮に上陸して、たった二十日余りの出来事でした。

3.平壌の戦い

平壌の戦い
図3:平壌の戦い

国王・宣祖は、更に日本軍が北上するという報を聴き、平壌(ピョンヤン)、更に北上して明との国境・義州(イジュ)に避難。

これにより同年六月十五日、第一軍の行長・義智らと三軍の黒田長政黒田長政は無人の平壌城に入城しました。しかし朝鮮朝廷も逃げているばかりではなく、明に援軍を要請。

かくして同七月一七日、明将の祖承訓・史儒らの援軍が平壌城を攻撃。行長はこれを撃退しましたが、明の来援にはソウルの日本軍にも衝撃を与えました。

行長は明の再援を回避すべく、明の外交家・沈惟敬と初会談に挑み、五〇日の停戦協定が締結。しかしこれは沈惟敬の罠で、明皇帝は同年十月に提督李如松を朝鮮に派遣することを決定しました。

翌年一月六日、李如松が四万の兵を率いて平壌城を包囲して攻撃を開始。城内の日本軍一万五千は、圧倒的な明軍の兵の数と大砲の威力に破れ、行長・義智らは平壌城を脱出。黒田長政籠る黄海道白川へと逃れました。

この時の様子は、明の来援に尽力した朝鮮宰相・柳成龍が記した『懲毖録(ちょうひろく)』に詳しく書かれています。

「賊将平(小西)行長、宗義智、(僧)玄蘇、平(柳川)調信らは、残りの軍を率いて(連日)連夜遁走したが、気力は萎え、足はまめだらけで、びっこをひきながら行き、あるものは田の中を這いまわったり、口を指して食物を求めたりした。わが国では、誰一人出て(この人々を)撃つ者はなく、明国兵もまたこれを追わなかった。(懲毖録)」

こうして行長・義智らは、黒田長政と共に同年一月一七日にソウルへ帰陣しました。

4.碧蹄館・幸州山城の戦い

文禄の役地図・黒田長政
図4:文禄の役 終盤戦

この勢いに乗ったは李如松は、都ソウル・漢城の襲撃を目指して南下。

これを小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂らソウルの日本軍が、同月二十七日、ソウルの北方の碧蹄館(ピョクジェグアン)で撃退しました。

一方、李如松南下に呼応して朝鮮軍の権慄が南から北上。

ソウルの日本軍は今度は、幸州(ヘンジュ)山城で権慄率いる朝鮮軍と戦闘になりましたが、行長ら日本軍は敗退。日本軍はソウルからの撤退を決定しました。

5.第二次晋州城の戦い

しかし秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた前年に敗れた晋州城再び攻撃再び攻撃することを厳命しました。

これにより文禄二年(1593)六月、第一隊の加藤清正加藤清正黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂島津義弘島津義弘、第二隊の行長・宗義智宗義智細川忠興素材細川忠興伊達政宗伊達政宗浅野長政浅野長政黒田官兵衛黒田官兵衛、第三隊の宇喜多秀家宇喜多秀家石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継、第四隊の毛利秀元毛利秀元、第五隊の小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

十一日間の激戦の末、晋州城陥落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

6.危険な和平プロジェクト

慶長の役_主な戦い
図5:慶長の役_主な戦い

しかし主戦派・清正と違って本当は朝鮮侵攻に意義を見出せない行長。

一時停戦時に行長は明国の沈惟敬と図って、秀吉の窺い知らぬ所で勝手に秀吉の降伏文書を作成。行長の家臣・内藤如安は、この降伏文書を携えて北京に向かい、明皇帝に恭順を誓いました。

しかしこれが後日、秀吉に露見して大きな怒りを買いますが、首をはねられずに再出兵の際、行長は再び先鋒隊を仰せつけられました。

行長の命が助かったのは、朝鮮奉行である石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継・増田長盛も同意の上だという証拠の文書を差し出した為と言われています。または、秀吉の外交軽視・文書軽視の現れも言えるでしょう。

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより行長は清正と一番隊と二番隊と二日交代で務めることになりました。

7.南原と順天の戦い

順天の戦い
図6:順天の戦い

同年八月はじめ行長は、宇喜多秀家宇喜多秀家島津義弘島津義弘らと共に慶尚道から全羅道・南原へ進軍

同月一六日、明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を落とし、秀吉の命令によって日本軍による大量殺戮と鼻切りを行われました。

日本軍の帰国が始まると、明・朝鮮軍の戦略は日本軍追撃に転換。

慶長三年(1598)九月二〇日、明軍の劉綖陳璘、朝鮮軍の権慄李舜臣李舜臣の連合軍は、行長らの順天倭城を囲み、順天倭城を水陸から挟撃しました。

行長ら日本軍は激しく応戦し、多くの明兵を撃破。これにより劉綖は戦意を喪失し作戦を遂行しなかったので、朝鮮・明連合軍は順天倭城を撃破することには失敗しました。

8.露梁(ノリャン)海戦

露梁の海戦
図7:露梁海戦

順天を死守した行長。しかし秀吉が八月に伏見城で死去を知った李舜臣と陳璘によって帰国の退路を断たれていまいました。

そこで行長は、順天倭城にほど近い泗川倭城の島津義弘島津義弘に一艘の小舟を出して急を知らせます。

慶長三年(1598)一一月一五日、行長を救援すべく義弘を筆頭に立花宗茂立花宗茂宗義智宗義智ら約五百隻の大船団が南海から露梁(ノリャン)に迫りました。

これに対して、朝鮮水軍李舜臣李舜臣と明水軍都督の陳璘は約五百隻の兵船を左右に分けて砲撃。

この戦闘中、行長は順天から脱出。李舜臣は戦死。島津勢は多数の死傷者を出し、朝鮮役最後の戦いとなった露梁海戦は朝鮮・明連合軍が勝利して幕を閉じました。

9.アゴスチーニョの死にローマ市民が祈祷

関ヶ原合戦直前の諸大名配置図
図8:関ヶ原合戦直前の諸大名配置図

露梁海戦の二年後の慶長一一年(1606)九月、迎える運命の関ヶ原の戦い。行長は西軍・石田三成石田三成方に属して関ヶ原で戦いましたが、武運なく三成と共に処刑されました。

キリシタンであった行長(教名アゴスチーニョ)の死は、海を渡り遠くローマ教皇の元まで届き、その死をローマ教皇は嘆き、全ローマ市民が祈祷したと伝わっています。

実は行長がキリシタンということは、国内のどの古文書にも記載がなく、ローマの文献にかすかに残っているだけです。キリシタンを強く取り締まる江戸時代に入って、小西行長=キリシタンという古文書は、焼かれてしまったのかもしれません。

ともあれ、文禄・慶長の役の日本軍の主役的存在として行長をもう一度捉え直すべきです。

行長が他の日本軍に比べて別段残虐でなかったわけではありません。しかし置かれた立場に苦悩しながら和平を希求し、奔走したことは事実であり、そのことはもっと注目されてもいいでしょう。

小西行長相関図

運命共同体

娘婿:宗義智宗義智

いい加減にしてほしいご近所

加藤清正加藤清正

元主君

宇喜多秀家宇喜多秀家

明の謎の相方

沈惟敬

ライバル

朝鮮

李舜臣李舜臣権慄柳成龍

平壌の戦い李如松順天の戦い劉綖陳璘

露梁海戦 命の恩人

島津義弘島津義弘立花宗茂立花宗茂

仲良し

石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継

  

小西行長 関連リンク

肖像画素材糸車(中結祇園守)家紋軍旗素材

イラスト:POPwith李舜臣 清正ほっこり

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

参考文献

上垣外 憲一『空虚なる出兵―秀吉の文禄・慶長の役 (Fukutake Books) 』(福武書店、1989年)

柳 成竜 (著), 朴 鐘鳴 (翻訳)『懲毖録 (東洋文庫 357)』(平凡社 、1979年)

永原慶二 編『日本歴史大事典』(小学館、2000年)