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戦国武将解説

宇喜多秀家(うきた-ひでいえ)

プロフィール

宇喜多秀家
Hideie Ukita

備前岡山城主。五大老の一人。幼名は八郎。

父は戦国の梟雄・宇喜多直家。父の死後は豊臣秀吉の養子。

文禄の役では総大将として朝鮮へ出兵。

碧蹄館の戦いで、秀家を総大将として小早川隆景立花宗茂ら日本軍は、提督李如松率いる明軍を撃破。

その半月後、秀家率いる日本軍三万は、権慄以下朝鮮軍一万が籠もる幸州山城を攻撃したが敗退。秀家は重傷を負った。

慶長の役では、毛利秀元と共に全軍の総帥になって朝鮮へ出兵。

明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を落としたが、明経略楊鎬李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍により、日本軍は再び劣勢に陥ってしまう――

享年八四(生1572-没1655)。沙也可より一つ年下、小早川秀秋より一〇年上。

詳細

1.秀吉の養子として寵遇を受ける

文禄年間 中国・四国諸大名配置図
図1:文禄年間 中国・四国諸大名配置図

父は戦国の梟雄・宇喜多直家宇喜多秀家秀家一〇歳の時に父・直家が没した後、豊臣秀吉豊臣秀吉の養子なり、寵遇を受け、遺領相続を許された秀家は備前岡山城主となり五七万石を領しました。

しかし贅沢をしすぎたり、また前田利家前田利家の娘で妻の豪姫の病気がお坊さんに頼んで祈祷しても直らないのでキリスト教に備前国は改宗する!といい、武功派の家臣に反発を受けたりしました。

しかしなんかどれをとっても、愛嬌のある失敗でなんだか許せてしまうのがまた、秀家の魅力かもしれません。

2.総大将として朝鮮出兵

朝鮮全土_文禄の役緒戦
図2:文禄の役 日本軍進路と国王避難路

豊臣秀吉豊臣秀吉が、日本の諸将朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月十三日、第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智が釜山(プサン)に上陸。

八番隊である二一歳の秀家は、総大将として朝鮮に出兵しました。

破竹の勢いで北上する第一軍の小西ら日本軍が首都ソウル・漢城に迫ると、国王・宣祖(ソンジョ)は平壌(ピョンヤン)に避難。

これにより日本軍は、上陸してから半月余りで無血のまま漢城に入城しました。

第一軍の小西・宗らは、更に北上して平壌(ピョンヤン)も制圧。国王はこれに先立ち義州(イジュ)へ避難しました。

3.平壌・碧蹄館の戦い

碧蹄館の戦い
図3:碧蹄館の戦い

しかし朝鮮朝廷もただ逃げているばかりではありません。

明に援軍を要請すると、提督李如松が四万の兵を率いて小西・宗らが籠る平壌城を囲み、城内の日本軍一万と戦闘となりました。

日本軍は明軍の圧倒的な兵の数と大砲の威力に敗北し、小西・宋らは平壌を脱出しソウルへ帰陣しました。

一方、勢いに乗ったは李如松は、首都ソウル・漢城の襲撃を目指して南下。

同月二十七日、秀家を総大将として小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂らソウルの日本軍は、碧蹄館(ピョクジェグアン)で李如松率いる明軍を迎撃。日本軍が勝利しました。

5.幸州の戦いで重傷

しかし今度は、李如松南下に呼応して権慄の朝鮮軍が南から北上。

李如松が敗れ単独で戦うことになった権慄の朝鮮軍は、ソウルから僅かに離れた幸州(ヘンジュ)山城に入って防備を固めました。

孤軍に何ができるのかと、秀家を総大将として小西行長・小西行長小西行長石田三成石田三成黒田長政黒田長政小早川隆景小早川隆景らソウルの日本軍三万は、二月一二日、ソウル・漢城から出陣して幸州城を包囲しました。

しかし日本軍は下から山城へ鉄砲を放つこととなり、朝鮮軍は山城の高みから火器の火車をふんだんに用いて迎撃。秀家・吉川広家は重傷を負い、敗退した日本軍はソウルへ引き上げました。

6.第二次晋州城の戦い

文禄の役 終盤戦
図4:文禄の役 終盤戦

一方、藤堂高虎藤堂高虎ら日本水軍は開戦当初から李舜臣李舜臣率いる朝鮮水軍に連戦連敗。陸・水とも窮地に陥った日本軍はソウルからの撤退を決定しました。

しかし秀吉は撤退の許可を与える代わりに、前年に敗れた晋州城再び攻撃することを厳命しました。

これにより文禄二年(1593)六月、第一隊の加藤清正加藤清正黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂島津義弘島津義弘、第二隊の小西行長小西行長宗義智宗義智細川忠興素材細川忠興伊達政宗伊達政宗浅野長政浅野長政黒田官兵衛黒田官兵衛、第三隊の秀家・石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継、第四隊の毛利秀元毛利秀元、第五隊の小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

十一日間の激戦の末、晋州城は陥落。朝鮮軍の金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

7.慶長の役・左軍総帥

慶長の役地図_宇喜多秀家
図5:慶長の役 日本軍進路図

一時停戦時に五大老となり、慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより二六歳の秀家は八番隊として毛利秀元毛利秀元と共に再出兵しました。

同年七月、藤堂高虎藤堂高虎・島津義弘らが漆川梁(チルチョンリャン)で元均いる朝鮮水軍に勝利。

同年八月はじめ、日本軍は総大将・小早川秀秋小早川秀秋を釜山に留め、軍全体を左右に分けて、宇喜多秀家を総帥とする左軍の小西行長・島津義弘らは慶尚道から全羅道・南原へ。

秀元を総帥とする右軍の加藤清正・黒田長政らは慶尚道から北上して忠清道を目指しました。

8.南原、蔚山の戦い

南原の戦い
図2:南原の戦い

同月一六日、宇喜多秀家率いる左軍は、明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を落とし、秀吉の命令によって日本軍による大量殺戮と鼻切りを行われました。

一方、楊鎬の指令によって明軍が稷山(チクサン)で、忠清道を目指して北上していた黒田長政黒田長政毛利秀元毛利秀元の軍を迎撃。日本軍はソウル再侵入を断念せざるをえませんでした。

南原を落とし、全州も落とした左軍の秀家・小西行長は南原へ南下。

秀家と藤堂高虎は順天倭城を築き、これを小西行長が受け取り、行長は順天倭城に籠ることになりました。

左軍の島津義弘は、全羅道の西南まで南下して慶尚道・泗川(サチョン)に倭城を完成してここに籠もります。

さて、楊鎬と提督・麻貴は次の攻撃目標を加藤清正加藤清正に定めると、朝鮮軍の権慄と共に清正以下二千が籠もる蔚山(ウルサン)倭城を囲みました。

毛利秀元ら右軍が救援に駆けつけて囲みを解きましたが、明・朝鮮連合六万もの大軍に囲まれた事実は、秀家ら左軍にも衝撃を与えました。そして蔚山の戦い後、日本軍全体が一気に戦線縮小・撤退案に傾いていきました。

9.李舜臣に敗北する左軍の面々

露梁の海戦
図7:露梁海戦

慶長三年(1598)八月一八日、秀吉が伏見城で死去。日本軍の帰国が始まると、明・朝鮮軍の戦略は日本軍追撃に転換。

秀家は帰国しましたが、翌九月二〇日、順天倭城に居た小西行長小西行長は、明軍の劉(リュウ)テイと陳璘、朝鮮軍の権慄李舜臣李舜臣の連合軍に退路を押さえられ帰国できない状況に陥りました。

そこで行長は順天倭城にほど近い泗川倭城の島津義弘島津義弘に一艘の小舟を出して急を知らせます。行長の救援に義弘を筆頭に立花宗茂立花宗茂宗義智宗義智ら約五百隻の大船団が南海から露梁(ノリャン)に迫りました。

しかし李舜臣・陳璘の朝鮮・明連合水軍がこれを撃破。この戦闘中、行長は順天から脱出。島津勢は多数の死傷者を出し、朝鮮役最後の戦い(露梁海戦)は明・朝鮮連合軍の大勝利に終わりました。

10.影の薄すぎる総大将

関ヶ原合戦直前の諸大名配置図
図8:関ヶ原合戦直前の諸大名配置図

帰国後、関ヶ原の戦いで二九歳の秀家は西軍の大黒柱的存在でした。秀家は全力を尽くして戦ったものの西軍は敗れ、慶長一一年(1606)三五歳の秀家は、八丈島に流され一生をそこに捧げる人生でした。

しかし死を選ばずに八丈島で八〇過ぎまで生きながらえる秀家は、強くてかっこいいなと思います。

文禄の役では総大将として、慶長の役では左軍総帥として重責を担った秀家。右軍総帥の毛利秀元の働きをみれば、決してお飾り的な立場とも言えませんし、秀家に特別残忍な行為がなかったとも言えません。

朝鮮役を語るには欠かせない存在であることは間違いないのですが、秀家の朝鮮役を語るも影薄く、他の武将の働きが中心にならざるえず、当ページは全体的な説明になってしまいました。秀家~!!(笑)

だけどそこに、総大将・左軍総帥に据えられた彼の「有難迷惑」さとか「やる気のなさ」が伺えるような気がしないでもないです。

宇喜多秀家 相関図

家族

実父:宇喜多直家/義父:豊臣秀吉豊臣秀吉  

元家臣:小西行長小西行長 

碧蹄館の戦い

ライバル:李如松/味方:小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂

幸州山城の戦い

ライバル:権慄/味方:小西行長小西行長石田三成石田三成黒田長政黒田長政小早川隆景小早川隆景

慶長の役・左軍

小西行長小西行長宗義智宗義智島津義弘島津義弘立花宗茂立花宗茂

同僚の五大老

徳川家康徳川家康前田利家前田利家上杉景勝上杉景勝毛利輝元毛利輝元

関ケ原の戦い

西軍:石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継

  

宇喜多秀家関連リンク

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文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

参考文献

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)