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戦国人物解説

北条氏綱(ほうじょう-うじつな)執権姓を名乗り鶴岡八幡再建へ

目次

プロフィール詳細:1.父、高齢につき/2.虎印の開始

3.高縄の原の戦い/4.執権姓と紋に改/5.鎌倉の戦い

6.河越の戦い/7.国府台の戦い/8.鶴岡八幡宮 再建

補註相関図参考文献

プロフィール

北条氏綱
Ujiyasu Hojyo

小田原北条氏 二代当主。幼名・新九郎。

父・早雲八七歳から三二歳で家督継承すると、虎印による行政制度を確立する。

父が敗れた関東管領・上杉氏を、高縄の原(港区高輪)で破り、江戸城に入り、はじめて武蔵進出を果たす。また伊勢から鎌倉執権の姓と三つ鱗紋に改めた。

江戸城奪還を目指す上杉朝興は勢いづき、房総の里見氏は突然、江戸(東京)湾から三浦半島に来襲。鎌倉は焼け野原になり、鶴岡八幡宮も消失してしまう。

河越城の朝興が没すると、末弟の幻庵や子の氏康らを率いて出撃、同城奪取。武蔵に侵攻した足利・里見連合軍を下総・国府台で激突する――!

享年57(1487-1541)。

朝興より1歳下。武田信虎(信玄父)より7歳、毛利元就より10歳年上。

1.父氏綱の偉業

1.父、高齢につき

長享(ちょうきょう)元年(1487)北条早雲早雲が(計算上)五七歳の時に新九郎こと氏綱は長男として生まれました。

北条家は早雲しかり代々、長男に新九郎の名を与え、家督を相続しました。弟に氏時(初代玉縄城主)、氏広、長綱(幻庵宗哲)。永正一五年(1518)早雲八七歳は氏綱三二歳に家督を譲りました。それ以前の氏綱の事跡はわかっていません。早雲は翌年死去しました。

2.虎印の開始

虎朱印・祿壽慶穏_小田原北条氏
北条氏 虎朱印
2004年 小田原城にて押印

北条氏は氏綱から本拠を伊豆の韮山城から相模の小田原城をにし、同年一〇月から初めて虎印判状が出現し、虎印による行政制度を確立されました。

虎印は、虎の形象の下に祿壽應穏(ろくじゅおうおん)という世の平和を願った言葉が刻まれています。特徴は第一に他の戦国大名の印章より大型(1辺7.5cm)であること。

第二に、他の大名の印章は一代限りですが、北条氏は氏綱以降、四代にわたり八〇年間使われ続けたこと。小田原当主のみ使用が許され、一族の人でも使用が許されませんでした。

第三に使用頻度も高く、虎印判状は現在一一〇〇通ほどが残っています。

3.高縄の原の戦い

早雲を破った関東管領上杉氏。上杉氏は総領家の山内(やまのうち)と別家の扇谷(おおぎがやつ)があり、江戸城(千代田区皇居)には扇谷上杉朝興(ともおき)がいて、家老には太田資高(道灌の孫)・資貞兄弟が朝興を補佐していました。

氏綱は太田資高を北条側に寝返らせることに成功。大永四年(1524)正月、氏綱三八歳は大軍をもって多摩川を越え、朝興三七歳は品川に出撃。四月一三日、高縄(たかなわ)の原(港区高輪)で両軍が激闘。

朝興本隊は総崩れとなり、江戸城に退却。江戸城に押し寄せた北条軍を太田資高・資貞兄弟が誘導し、朝興は河越城(埼玉県川越市)に敗走。こうして氏綱は江戸城に入り、北条氏ははじめて武蔵国に進出しました。

4.執権姓と紋に改

北条鱗素材
北条鱗

この瞬間、関東管領を追い詰め、関東の戦国大名へと飛躍。父早雲はもちろん氏綱も鎌倉時代の執権職の北条氏とは何の繋がりもありませんでしたが、このころ伊勢平氏の由来ある伊勢を改め北条と改姓としました。

また同時に当然ながら?家紋も鎌倉北条氏と同じく三つ鱗紋に改めたようです。しかし早雲以来、駿河今川氏とは主従的関係で、いまだ北条氏は自立した存在ではありませんでした。

5.鎌倉の戦い

北条氏綱_関係地図
図:北条氏綱_関係地図

また上杉朝興は江戸城奪還を諦めてはいませんでした。朝興に味方した総領家の山内上杉憲政(のりまさ)は氏綱方の毛呂城(埼玉県毛呂町)を攻め、氏綱は同城を明け渡しました。

しかし、同じく朝興方の岩付城(同県岩槻市)の太田資頼は、岩付城攻略をもくろむ氏綱に攻略されてしましました。大永五年(1525)八月には白子原(同県和光市)で朝興と氏綱と激突しましたが、氏綱は敗退して八〇〇人以上の戦死者を出しました。

翌同六年には朝興の軍が優勢となり、一一月に氏綱は本拠・玉縄城まで攻められ、一二月には突然、房総の里見実堯(さねたか)が江戸(東京)湾を軍船で渡って三浦半島に来襲。鎌倉は焼け野原になり、鶴岡八幡も消失しました。

享禄四年(1533)には太田資頼が、北条方に奪取されていた岩付城を奪回し、城主の渋江三郎が戦死しました。

6.河越の戦い

川越城外観
川越城 2005年撮影

天文四年(1535)八月、上杉朝興の軍が相模に侵入して、放火・狼藉の限りをつくし、九月に引き上げました。一〇月、氏綱軍は逆襲。入間川陣(埼玉県狭山市)で朝興軍と激突して破り、朝興は河越城へ敗走。同六年四月に朝興五〇歳は同城にて没しました。

跡を継いだ子の朝定は一三歳。これを知った氏綱は、七月に再び河越城を攻略に出陣。北条氏打倒の信念を燃やす朝定方は、三ツ木(狭山市)に陣を貼り北条軍を迎え撃ちました。末弟・長綱(幻庵)および子の北条氏康氏康二一歳・為昌(ためまさ)一六歳も出撃し、氏綱は扇谷上杉氏の本拠・河越城を奪いました。河越城主には為昌を置きました。

7.国府台の戦い

下総・小弓(おゆみ)公方の足利義明[]は上杉氏の支援者で、同七年(1538)房総(千葉県南部)の里見義堯(よしたか)二七歳と合して武蔵に侵攻。

下総(千葉県北部)国府台(こうのだい:市川市)において、氏綱五二歳と北条氏康氏康二六歳の父子と義明・義堯連合軍が衝突しましたが、北条方が足利軍の先鋒をあっけなく突き崩して、義明を討ち取りました。

早雲の甥で駿河今川氏当主・氏親の娘は氏康室であり、今川と北条は関係は良好でしたが、氏親が同六年(1526)に没し、家督を継いだ氏輝が天文五年(1536)に死去。氏親五男・今川義元義元が当主となると両家の関係は崩れていきました。

8.鶴岡八幡宮 再建

遡ること天文元年(1532)五月から氏綱は、鶴岡八幡宮(鎌倉市)を再建に着手。鶴岡八幡宮は鎌倉幕府の創立者・源頼朝が創建し、以後は執権北条氏が掌握していた神社です。

再建には年月も資金も人が多く必要でしたが、小田原北条氏の実力や権威を示すために敢行。この一大事業にを成し遂げた同一〇年(1541)氏綱は死去しました。享年五五

補註

足利義明は、二代目古河公方・足利政氏の次男。父・政氏と兄・高基が反目すると、義明も双方に異を唱え還俗して諸国を流浪。突如下野に現れ、後ろ盾を得て挙兵。下総小弓城を奪い取り、古河公方と対抗した。

北条氏綱 相関図

  • 父:北条早雲早雲
  • 子:北条氏康氏康・為昌(ためまさ)・氏堯(うじたか)、女子五人(綱成室、足利晴氏室など)
  • 婿:綱成
  • 孫:北条氏政氏政

参考文献