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戦国武将解説

光海君(クァンヘクン/こうかいくん)

プロフィール

光海君
광해군
Kwang-hae-kun

李氏朝鮮王朝 第15代国王。宣祖の第二子。姓は李、諱は琿。

文禄元年4月、日本の諸将朝鮮へ侵攻し、破竹の勢いで北上。国王の宣祖は首都ソウルから平壌へ避難し、万一に備えて光海君を王の世継ぎと定めた。

更に北上して寧辺(ヨンピョン)へ避難した宣祖は、分朝の命を下して、明との国境・義州(イジュ)に入って明に援軍を要請。

18歳の光海君は寧辺から南下し、檄を飛ばして義兵を奮起。各地で義兵活動が活発化する。

年明け、提督李如松が四万の大軍を率いて小西行長籠る平壌城を撃破。咸鏡道の加藤清正は義兵抗争に敗れた。

戦後は焼土と化した国土の復興に務める一方、党争が激化。外交では朝鮮国王として明と清、どちらに付くか難しい選択を迫られる――

享年67(生1575-没1641)。宇喜多秀家より3歳年下、毛利秀元より4歳年上。

詳細

1.世子分朝

光海君分朝路
図1:文禄の役 朝鮮全土関係図
光海君分朝路・国王避難路・日本軍進路

光海君は宣祖(ソンジョ)の第二子で、母は恭嬪金氏。

文禄元年(1592)四月十三日、 豊臣秀吉豊臣秀吉の命により日本の諸将朝鮮へ侵攻

第一軍の小西行長小西行長らが釜山(プサン)に上陸すると破竹の勢いで北上。二十日余りで都・漢城(ソウル)を制圧しました。

それに先立って四一歳の宣祖は、大雨の中を都・漢城(ソウル)を捨て、平壌へ避難。

従う者は柳成龍などの臣下、王妃、女官など一〇〇人以下。李氏朝鮮王朝建国以来二〇〇年、存立の危機に陥りました。

国王は万一のことを考え、また人心の安定をはかるため、凶暴で人望がない長子・臨海君(イムヘグンソン)ではなく、次子・光海君を王世子(おうせいし・王の世継ぎ)と定めました。

2.義兵活動in分朝

小西らの北上は続き、宣祖は平壌を脱出。寧辺(ヨンピョン)へ落ち延びましたが、光海君が宣祖と同じ所にいては、もしものことがあった時に取り返しのつかないことになります。

そこで宣祖は同年六月、分朝の命令を下しました。これにより国王は明との国境・義州(イジュ)に入り、光海君は寧辺にとどまって戦時下の国務を分担することとなりました。

一八歳の光海君は寧辺から南下して、同年七月九日、江原道・伊川(イチョン)に到着。ここで光海君は義兵将・金千鎰を通じて檄を飛ばし、義兵は奮起しました。しかし、日本第四軍の島津義弘島津義弘ら江原道侵犯により、同月二八日、伊川を離れて成川(ソンチョン)へ向かうことになりました。

一方、宣祖は明に援軍を要請。翌年一月、李如松が四万の明兵を率いて小西行長籠る平壌城を攻撃。行長は敗退してソウルへ帰還。かくして光海君は、平安道・定州(ジョンジュ)で国王と合流することとなり、分朝は解消しました。

それにしても分朝となった王世子・光海君が義兵に奮起を促した影響は大きく、咸鏡道を制圧して朝鮮二王子臨海君と順和君(スンファグンジク)を捕らえていた加藤清正加藤清正は同年二月、義兵抗争に敗れてソウルに帰還したのでした。

3.戦後の復興と王位継承問題

戦後、七年に渡る戦乱の結果、莫大な人命を損失し、国土は荒廃。徳川家康徳川家康が江戸幕府を開くと朝鮮との外交を積極的に推進。

約五千人の捕虜が送還され、対馬藩の宗義智宗義智景轍玄蘇らも朝鮮に働きかけたこともあり、宣祖と光海君は日朝国交回復に努めました。慶長十二年六月、江戸期第一回朝鮮通信使が来日して国交が回復。

一方、宣祖は晩年に継妃金氏(仁穆王后)に永昌大君を得て寵愛し、これを密かに世子にしようとしたと言います。こうして兄・臨海君と弟・永昌大君との間に王位継承問題が勃発。

朝廷の党派は南人が破れ、北人は大小に分かれ、大北は光海君を、小北は永昌大君を支持しました。党争の弊害が大きく、光海君は李元翼らを登用してこれを抑制しようとしました。

しかし反って大北派・鄭仁浩らの策謀にのり、兄・臨海君、仁穆王后の父・金悌男、八歳の弟・永昌大君を謀反の罪で殺害し、仁穆王后を廃位して西宮に幽閉しました。

4.光海君の政治

サルフの戦い地図
図2:サルフの戦い

三四歳で即位した光海君は内政においては、『新増東国輿地勝覧』及び医学書の『東医宝鏡』などの編纂刊行、史庫(朝鮮王朝実録や国家の重要文献が保存されている書庫)の整備、号牌法の実施に努めました。

外交においては、女真族が住む満州には清の太祖・ヌルハチが現れ、朝廷では明と清いずれかにつくかが問題に。

光海君は明と女真族に対して中立外交政策をとりましたが、ついには姜弘立を将とする明軍に援軍を送りました。

しかし楊鎬率いる明軍はサルフの戦いに敗れ、姜弘立は清軍に降伏。女真族の支配地域が拡大していく間、光海君は密かに清に通じて、首鼠両端の計をもって保国策としました。

政権から久しくと遠ざかっていた西人は、この機を利用して李貴らによって光海君を廃して仁祖を即位させました。光海君は江華島に追放されて更に済州に移されて没しました。

光海君 相関図

宿敵

豊臣秀吉豊臣秀吉

朝鮮国

国王:宣祖・光海君/朝廷:柳成龍金誠一

陸軍:権慄金時敏沙也可

水軍:李舜臣李舜臣元均

義兵将:郭再祐/学者:姜沆

明国

万暦帝李如松沈惟敬楊鎬陳璘劉綖

  

光海君リンク

イラスト

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

詳細事項

村上水軍とは 前編後編日朝国交回復年表

参考文献

田中孝三『光海君(アジア歴史事典〈第3巻〉キンーコ 新装復刊)』(平凡社、1985年)

伊藤亜人, 武田幸男, 高崎宗司, 大村益夫, 吉田光男『新版 韓国 朝鮮を知る事典 』(平凡社、2014年)

北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

上垣外 憲一『空虚なる出兵―秀吉の文禄・慶長の役 (Fukutake Books) 』(福武書店、1989年)