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戦国人物解説

景轍玄蘇(けいてつ-げんそ)対馬外交僧の公文書改竄と以酩庵

目次

プロフィール詳細:1.対馬に招かれる 2.仮途入明 3.大同江の会談

4.平壌の戦い 5.日明和議交渉 6.日朝国交回復に尽力

7.以酩庵輪番制相関図参考文献関連記事

プロフィール

景轍玄蘇
Genso Keitetu

対馬宋氏の外交僧。臨済中峰派の禅僧。仏巣(せんそう)と号す。

文禄・慶長の役では、第一軍の小西行長義智に従って外交の中心を担い、朝鮮・明との交渉の最前線に立って活躍。

秀吉の強硬な主張をそのまま相手側に伝えては反発必至なので、歪曲、文書改ざん当たり前。一方、持ち前の教養を活かして、明側に詩を贈りもする。

戦争中は日明和議交渉に奔走し、戦後は日朝国交回復に尽力。対馬・朝鮮間の貿易が正式に再開(己酉約条)し、朝鮮からは銅印が授与される。

対馬の住居・以酩庵(いていあん)は、幕末まで重要な役割を担うことに――

享年75(1537-1611)。同い年は豊臣秀吉足利義昭権慄

詳細

1.対馬に招かれる

文禄年間 九州諸大名配置図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

景轍玄蘇玄蘇は、河津隆業の子として天文六年(1537)に生まれ、代々筑前国宗像に住し、大内氏の家臣の家柄と言われています。

二二歳の時に博多聖福寺の住職になり、四四歳の時に、対馬島主・宋義調(よししげ)の招きによって、対馬に渡り日本国王使として朝鮮へ度々渡海。外交僧として活躍していました。

一方、島津氏を服属させ九州を平定した豊臣秀吉豊臣秀吉の次の狙いはアジア――明国制圧。

秀吉は、明国の通り道となる朝鮮に国王・宣祖の参内を、対馬の宋義調・宗義智義智父子を通して要求。

秀吉の要求を適当にうっちゃらかしている間に義調が死去しました。

朝鮮の城

2.仮途入明

天正一七(1589)秀吉は、義智に対して直接訪朝を命令。これにより義智は玄蘇を正使に、自ら副使となってソウル・漢城まで行きました。

玄蘇・義智が粘り強く交渉をした結果、朝鮮は朝鮮は通信使として金誠一らを日本に派遣することを決定。

通信使一行は義智と共に京都にのぼり、翌年一一月七日、聚楽第において秀吉との会見。詳しくは秀吉と対面する朝鮮通信使参照のこと。

金誠一は、持参した国書に対する秀吉の返書が「道に悖(もと)り、人をあなどる」ものとして、玄蘇と交渉して改定しました。

また通信使の帰国に同行した玄蘇は東平館にて、金誠一に「朝鮮が先ず(事の次第を明に)奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もありますまい」と告げました。これは秀吉の明制圧先導命令を玄蘇が「仮途入明」にすり替えたものですが、金誠一らは大義をもってこれを責め諭しました。

これに対して玄蘇は「昔、高麗が元の兵を導いて、日本を攻撃したことがあります。日本が、このことをもって怨みを朝鮮に報いようとするのは、勢いとして当然のことであります」と言いたて、その言辞がだんだん荒々しくなってきました『懲毖録』。

3.大同江の会談

文禄の役・第三軍の黒田長政進路
図2:文禄の役 日本軍進路
玄蘇は第一軍に従軍

文禄元年(1592)四月一三日、日本の諸将朝鮮へ侵攻

玄蘇は、第一軍の小西行長小西行長・義智に従って従軍し、外交を担当することになりました。

日本軍は釜山に上陸すると破竹の勢いで北上し、僅か半月で都・漢城(ソウル)を制圧。

更に北上して、日本軍は開城(ケソン)を落とし、第一軍と第三軍・黒田長政黒田長政らは平壌の東北から西南に流れる大同江畔に迫りました。

六月九日、行長・義智らは朝鮮大司憲李徳馨(リ・ドクヒョン)に講和についての会談を申し入れました。

この結果、玄蘇と柳川調信(義智家臣)と李徳馨は、大同江(テドンガン)に船を浮かべ、酒を酌み交わしながら会談しました。

玄蘇は「日本は(朝鮮に)道を借りて中原(中国)に朝貢しようとしたが、朝鮮が許さなかったため、この事態となりました。今からでも(朝鮮が)一条の路を借し、日本を中原に到達させてくれれば、事はないでしょう『懲毖録』」と言いました。

徳馨は「死すとも(日本の要求に)聴従せず」と、これをはねのけました。

4.平壌の戦い

平壌の戦い
図3:平壌の戦い

同年六月一五日、行長・義智・黒田長政らは平壌城を落としました。しかし翌月、明の援軍が平壌城を攻撃。

行長らはこれを撃退しましたが明の再援を回避すべく、行長は明の外交家・沈惟敬と初会談に挑み、五〇日の停戦協定が締結されました。

しかしこれは沈惟敬の罠で、明皇帝は同年十月に提督李如松を朝鮮に派遣することを決定。

翌年一月五日、李如松が平安道順安(平壌北方二〇km)に駐屯し、先鋒の副総兵・査大受に命じて「明皇帝は日本との講和を許し、沈惟敬もほどなく来るであろう」と日本側に伝えさせました。

行長らは喜び、玄蘇は明側にまことを通じるための詩を贈りました。

「扶桑戦いを息め、中華に服し、西海九州、一家に同じ。喜気忽(たちま)ち消す、寰外の雪。乾坤、春は早し、太平の花『懲毖録』」

六日、李如松は四万の兵を率いて平壌城を包囲して攻撃を開始。城内の日本軍一万五千は、圧倒的な明軍の兵の数と大砲の威力に破れ、行長・義智・玄蘇らは平壌城を脱出。ソウルへ帰陣しました。

龍

5.日明和議交渉

ソウルの日本軍は同月二十七日、明軍を碧蹄館で撃退しましたが、幸州山城権慄率いる朝鮮軍に敗れました。

ここに至って行長は、玄蘇に命じて明側に和議の条件を相談させ、三月五日に行長と沈惟敬の和議の会談が再開。五月一五日、行長らは明の非公式使節(スパイ)謝用梓・徐一貫を伴って肥前名護屋に着岸しました。

この時、秀吉のブレーン・西笑承兌は名護屋にいましたが表に出ず、明使節との折衝は玄蘇と南禅寺の玄圃霊三があたりました。玄蘇は仮途入明と同じ理屈で秀吉の主張を歪曲し、霊三は秀吉の意向に沿って強弁な主張をし、明はこれを拒否、折衝は平行線をたどりました。

また義智は、明皇帝より任じられた冊封使の正使・楊方亨、副使・沈惟敬を大坂城に導き、慶長元年九月一日、秀吉に拝謁させました。しかし明との和議は破談となって朝鮮再出兵となり、玄蘇は行長・義智に従って従軍、再び戦時外交を担当しました。

6.日朝国交回復に尽力

七年にも及ぶ戦争が終わると、義智は直ちに行長らともに和議の書を送り、捕虜百数十人送還しました。対馬は朝鮮との貿易が生活の糧になっていたからです。

慶長八年(1603)二月、徳川家康徳川家康が征夷大将軍に就任。義智は将軍家康から正式に通信使派遣の要請を請けました。幕府の要請により同一一年(1606)、義智の重臣・柳川調信(しげのぶ)・智永(としなが)父子、更に玄蘇らが訪朝することになりました。

柳川氏・玄蘇は、朝鮮より日本との最終講和条件として日本側から先に国書を送ること等を突き付けられました。家康がそれに応じるはずがないと、柳川氏・玄蘇は日本と朝鮮の国書を双方を偽造。

危ない橋を渡り歩いて、同一二年(1607)通信使・呂祐吉(リョウギル)ら五〇四名が来日、江戸城で家康・徳川秀忠秀忠と会見。ついに国交回復し、江戸時代二百余の間に一二回に渡り通信使一行が来日しました。

また玄蘇は、慶長一四年(1609)六月に宋氏と朝鮮とが締結した己酉(きゆう)約条の成立を成功させ、対馬・朝鮮間の貿易が正式に再開されました。

玄蘇はその功をもって朝鮮より「仙巣」図書(銅印)を授与されましたが、同年十月、対馬・以酩庵(いていあん)にて没しました。

7.以酩庵輪番制

以酩庵(いていあん)は、玄蘇が義調に招かれ対馬に開いた禅寺。庵号は、彼の生年の干支・丁酉(テイ・イウ)にちなみます。

玄蘇は当寺を拠点として、対朝鮮交渉に従事。死後は弟子の規伯玄方(きはく-げんぼう)が継承しました。玄方は江戸幕府の命を受けて、朝鮮との往復文書作成しました。

一方、柳川智永死後は子の調興(しげおき)が後を継ぎ、義智死後は義成(よしなり)が宗家当主となると、有力幕閣と親しかった調興は藩主から独立を目論みました。

寛永一〇年、調興はかつてなされた日朝両国の国書改ざんの事実を幕府に暴露し、大きな波紋を投げかけましたが、将軍家光の親裁によって調興が処分され、義成の無罪が確定されました(柳川一件)。

しかし藩主側からの処罰者として、玄方が東北地方の南部家へ預けられることとなりました。玄方後任を要請した義成に対して幕府があたえたのは、京都五山の僧が輪番で対馬に赴くという方法。

彼らは玄蘇・玄方の残した以酩庵を住居とし、これを以酩庵輪番制と言い、幕末まで続きました。輪番僧は、外交文書の起草や、朝鮮通信使来日の対応など当たりました。

景轍玄蘇 相関図

  • 父:河津隆業

文禄・慶長の疫

運命共同体

交渉相手

日朝国交回復

参考文献

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景轍玄蘇イラスト肖像素材