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戦国武将解説

浅野幸長(あさの-よしなが)

プロフィール

浅野幸長
Yoshinaga Asano

和歌山城主。浅野長政の長男で、加藤清正の運命共同体。

慶長の役に二二歳で渡海し、豊臣秀吉の命令で慶尚道・蔚山(ウルサン)の築城工事を担当。

完成後に加藤清正に引き渡す予定だったが、工事半ばで慶長二年の暮れに、明の楊鎬と麻貴及び朝鮮の権慄ら率いる六万に包囲される。

城内の幸長以下二千が防戦にあたり、西生浦倭城にいた清正は船で急ぎ駆けつけ蔚山倭城に入った。かくして清正と共に苦しい籠城戦を展開した。

帰国後、関ヶ原の戦いでは徳川家康に組して、功により紀伊国三七万余石を得て和歌山城主。一方で豊臣秀頼を擁護するが、まだ若い幸長の余命はそう長くはなかった――

享年三八(生1576-没1613)。毛利秀元より三つ年上。加藤清正より一四、宇喜多秀家より四つ年下。

詳細

1.能登に流される

慶長前期地図_中部地方周辺
図1:慶長前期地図_中部地方周辺
幸長の居城は甲斐府中

浅野幸長幸長は父・浅野長政浅野長政と母・浅野長勝娘の長男として天正四年(1576)に近江坂本に生まれました。

早くに豊臣秀吉羽柴秀吉に近侍し、天正一七(1589)一四歳の時に従五位下左京大夫に叙任。翌年の小田原攻めでは、三千の兵を指揮して父・長政に属し、武蔵国岩槻城攻略に活躍しました。

豊臣秀吉の明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月に日本の諸将朝鮮へ侵攻。一七歳の幸長は肥前名護屋の秀吉の本営に従軍しました。翌年一一月、父・長政と共に甲斐国を与えられて一六万国を分領。

しかし文禄四年(1595)二〇歳の時、関白・豊臣秀次豊臣秀次の失脚事件の時、妻の姉が秀次の妾だったという関係から連座の罪に問われて能登に流されました。

しかしかつて前田利家の五女と婚約した関係で、前田利家前田利家北政所北政所(秀吉室)との尽力あって翌慶長元年(1596)閏七月恩赦されました。

2.慶長の役 緒戦

慶長の役日本軍進路図_右軍01
図2:慶長の役 日本軍進路図_右軍

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより二二歳の幸長は六月に渡海。

秀吉の指示で西生浦(ソセンポソン)倭城に配置されたので、翌月ここに着陣しました。

同年八月はじめ、日本軍は総大将・小早川秀秋小早川秀秋を釜山に留め、軍全体を左右に分けて、宇喜多秀家宇喜多秀家を総帥とする左軍の小西行長小西行長島津義弘島津義弘らは穀倉地帯の全羅道へ。

毛利秀元毛利秀元を総帥とする右軍の加藤清正加藤清正・幸長・黒田長政黒田長政らはソウルを目指して兵を進めました。

同月一六日、宇喜多秀家率いる左軍は、明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を落とし、同じころ右軍先鋒の清正は、慶尚道・黄石山(ファンソクサソン)城をあっさり落としました。

しかし翌月七日、経略楊鎬の指令で明軍が、稷山(チクサン)で黒田長政と秀元の軍のソウル再侵入を阻止。その十日後、李舜臣李舜臣が朝鮮水軍を率いて鳴梁(ミョンリャン)海峡で、藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明来島通総来島通総ら水軍を撃破。 明・朝鮮軍が本領を発揮し始めました。

3.蔚山倭城の築城工事

倭城分布図_慶尚道南東海岸
図3:倭城分布図_慶尚道南東海岸

同年十一月より加藤清正加藤清正・幸長らは、慶尚道・蔚山(ウルサン)に倭城の築城工事をスタートさせました。

普請は幸長と毛利秀元家臣の宍戸元続が担当。軍目付は太田一吉。完成後に城を清正に引き渡し、清正は蔚山を軍事拠点にするという、秀吉の指示あってのことでした。

この普請は医僧・慶念の日記によると「日本から連れてきた農民を朝から晩まで城普請の材木採りに駆り立て、その労役を怠ったり、逃走する者あらば首枷をかけ焼金(火印)をあてる、またはその首を斬る」という過酷さでした。

4.蔚山の戦い

蔚山の戦い
図4:蔚山の戦い
明・朝鮮連合軍、城を包囲し外廓を突破

明の邢玠・楊鎬・麻貴の次の狙いは、日本軍のシンボリックな存在・清正。

これに都元帥・権慄も朝鮮軍を率いて加わり同年十二月二三日、明・朝鮮連合軍六万の大軍が日本軍二千余が籠る普請半ばの蔚山倭城を囲みました

しかしこのとき清正は西生浦倭城にいて、城内の幸長・宍戸元続・太田一吉らは防戦にあたりましたが、一吉は傷を負いました。

蔚山の急を聴いた清正は西生浦から船で急ぎ駆けつけ、二四日に蔚山に入城。かくして幸長、清正と共に蔚山にて地獄の十日間がスタート。

明・朝鮮連合軍に水道を立たれた城中は水も米もなく困窮し、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出。

楊鎬は降伏を勧告する文書を作製し、これを清正の元家臣で降倭の沙也可に持たせました。楊鎬の命を受けて沙也可は、騎馬で蔚山の近くまで行き、日本語で名乗り、城を明け渡し退散すれば軍兵の命は助かると清正に勧告。

日本軍は戦闘能力も士気もなくなっていたので、清正は和議に応じることを決意しましたが、幸長は「敵情量リカタシ」と反対。

それでも清正が和議に応じようとしたところ、年明け二日に毛利秀元毛利秀元黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂加藤嘉明加藤嘉明ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。

五日、楊鎬が全軍に撤退命令を出して十日余続いた蔚山の戦いはついに終了。しかしこの戦いにより日本軍は一気に戦線縮小・撤退案に傾いていきました。

同年(慶長三年)四月に幸長帰国。同年八月に秀吉が死去し日本軍の帰国が始まると、日本軍追撃戦として十一月に朝鮮水軍の李舜臣と明水軍の陳璘が、露梁(ノリャン)で島津義弘・立花宗茂立花宗茂らの水軍を撃破して、七年にも及ぶ朝鮮の役はようやっと幕を閉じました。

5.関ヶ原の戦い

慶長五年(1600)閏三月、豊臣の大黒柱・前田利家前田利家が大坂城で病死。これを機に加藤清正加藤清正黒田長政黒田長政福島正則福島正則加藤嘉明加藤嘉明細川忠興素材細川忠興・二五歳の幸長らは、反派閥の石田三成石田三成を大坂で襲い、三成を佐和山に引き籠らせました。

関ヶ原の戦いには先鋒となって岐阜城を攻め、関ヶ原の決戦に参加。戦後、紀伊国三七万余石を得て和歌山城主となりました。

同一五年(1610)・三五歳の時には名古屋築城に参加。翌一六年三月、豊臣秀頼豊臣秀頼徳川家康徳川家康の二条城会見に従いました。翌月に父・浅野長政が死去し、六月には清正が死去。

幸長は同一八年八月に和歌山で死去する最後まで秀頼を擁護しました。享年三八。跡継ぎなく弟・長晟(ながあきら)が継ぎました。室は池田恒興の娘、娘の春姫は尾張徳川の祖・義直に嫁ぎました。

幸長は稲富一夢に砲術を学んで「天下一」と称されるほど武術に秀でて、藤原惺窩や堀正意らには経学を学び、また孝心厚く父・長政のために盛大な葬儀を営みました。

イマイチ人物像がつかみづらい武将ですが、短い生涯であったこともあり、ちょっと大袈裟かもしれませんが蔚山の戦いのために生まれ死んでいったような生涯です。

また、父・長政と清正死後まもなく死んでしまうという、豊臣の栄枯盛衰を体現したような武将だった気がします。

浅野長政相関図

家族

お父さん:浅野長政浅野長政

お嫁さん:池田恒興の娘

主君

豊臣秀吉豊臣秀吉豊臣秀頼豊臣秀頼

秀次失脚事件

妻の姉が豊臣秀次豊臣秀次の妾。

連座の罪に問われて二〇歳の時に能登に流され前田利家前田利家に一年間お世話になりました。

蔚山の戦い

味方:加藤清正加藤清正

救援軍:毛利秀元毛利秀元黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂

ライバル:明の楊鎬・朝鮮の権慄

政敵

石田三成石田三成

先生

藤原惺窩から経学を学びました。

  

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文禄・慶長の役

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参考文献

国史大辞典編集委員会 『国史大辞典 第1巻 あーい 』(吉川弘文館、1979年)

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)