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系図

宋氏(対馬藩)系譜 義智の先祖や子孫

宋氏:そうし

五三桐
五七の桐

対馬(長崎県)の守護、戦国大名。近世の大名(外様)。本姓は惟宗(これむね)氏。

少弐氏(しょうにし)は、筑前・豊前・肥前・対馬・壱岐の守護を兼ねて北九州全土に勢力を拡大。しかし南北朝の動乱の中、少弐氏が没落。代わりに守護代であった宋氏が対馬守護に任ぜられ、以後代々世襲しました。

対馬藩は対馬府中に藩庁を置き、府中藩ともいい、一〇万の格式で幕末に至りました。

系図

左側番号(鎌倉~戦国時代):総領家歴代ほか対馬守護を務めた庶流などを含む。あくまで一応の目安まで。

鎌倉時代

  1. 助国(すけくに):資国とも。対馬の地頭代。確実な史料に見える宋氏を称した最初の人。文永一一年(1274)蒙古軍の対馬襲来を佐須浦(さすうら)小茂田浜(こもだはま)に迎え撃ち奮戦の末、討ち死。
  2. 盛明(もりあきら):助国長男。弘安四年(1281)再度襲来した蒙古軍と戦う。
  3. 盛国(もりくに)

南北朝時代

  1. 経茂(つねしげ):盛国の子。少弐(しょうに)氏に仕え、筑前(福岡県)守護代、対馬の地頭代。少弐氏六代・頼尚(よりひさ)が南朝方に敗れ、対馬の実質的支配権を確立。また高麗との貿易を開始。

室町時代

  1. 貞茂(さだしげ):霊鑑の子。庶流の仁位(にい)宋氏の頼茂から対馬の支配権を取り戻し守護。少弐氏を助け北九州に出兵することが多かったが、応永一五年(1408)本拠を対馬に移し、倭寇を取り締まり朝鮮との関係改善につとめる。
  2. 貞盛(さだもり):貞茂の子。倭寇征討のため、対馬を襲撃した朝鮮軍を退けた(応永の外寇)。のち朝鮮との関係を修復。癸亥(きがい)約条を結び、朝鮮貿易に特権的地位をかためた。
  3. 成職(しげもと):貞盛の子。父のあと対馬守護を継ぐ。嗣子(しし)なく、従弟の貞国が継ぐ。
  4. 貞国(さだくに):貞茂の孫。盛国の子。総領家と庶流(仁位(にい)宋氏)の対立を解消し、島内の支配と朝鮮通交統制権を確立。
  5. 材盛(きもり)

戦国時代

  1. 義盛(よしもり):材盛長男。少弐政資(まさすけ)死後、大内氏に属す。永正七年(1510)朝鮮で居留日本人が反乱をおこした三浦(さんぽ)の乱に出兵して大敗。朝鮮国交断絶も、九年に通交回復。権益は制限された。享年四五
  1. 晴康(はるやす)
  2. 義調(よししげ):晴康長男。対馬島主。豊臣秀吉秀吉から朝鮮に臣従を促すよう命じられ、折衝にあたる。享年五七。
  3. 茂尚(しげなお)
  4. 義純(よしずみ)

対馬府中藩(外様)

  1. 義智:将盛(まさもり)五男。一二歳で兄義純の跡をつぎ対馬守護。義調が後見、天正一六(1588)年守護に復帰していた義調死後により再任。文禄・慶長の役に出兵。慶長一〇年(1605)朝鮮と国交回復を成功させる。その特殊な立場から実際一万石であったにも関わらず、一〇万石の格式となる。
  2. 義成(よしなり):義智長男。治世中、朝鮮通信使来日は五回に及ぶ。享年五四
  3. 義真(よしざね):義成の子。同藩三代。藩政改革を進め、城下町の建設、朝鮮釜山の倭館の移転を実現。銀山開発と朝鮮貿易を振興して西国の長者といわれた。享年六四。以後、同藩幕末に至る。

参考文献

  • 小和田哲男「宋氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)371-373頁

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