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戦国人物解説

宇喜多直家(うきた-なおいえ)主家浦上氏に倣い主家を滅ぼす

目次

プロフィール詳細:1.祖父と父を失う 2.浦上氏のもとで

3. 独立―毛利か織田か相関図参考文献関連記事

プロフィール

宇喜多直家
Naoie Ukita

備前国(岡山県)の戦国大名。宇喜多秀家の実父。

備前国守護赤松氏守護代・浦上氏に仕えていた祖父。しかし祖父は主家に疎まれて自害。

その仇を討つべく、権謀術数の限りを尽くして浦上氏を倒し戦国大名となる。

中央で信長が台頭し、羽柴秀吉が播磨路に侵入を始めると、毛利氏と羽柴勢の進出を阻む。しかし全国統一目前の信長に帰順して今度は毛利氏と戦う。

享年53(1529-1581)。織田信長より5歳、上杉謙信より1歳年上。

詳細

1.祖父と父を失う

出雲国(島根県)の尼子経久が中国地方に勢力を伸ばしていた頃。 直家の祖父・能家(よしいえ)は、備前国(広島県)守護赤松氏守護代・浦上(うらがみ)氏に仕えていました。

大永元年(1521)直家九歳のとき、浦上村宗は赤松義村を殺害し、備前・播磨・美作を支配。しかし赤松晴政(義村長男)に攻められて没落しました。

天文三年(1534)能家は浦上村宗の死後、子息の宗景に疎まれ浦上氏家臣・島村豊後守に襲撃され自害。直家は、父の興家(おきいえ)と居城の備前砥石(といし)城を脱出。備後に隠棲しました。

父興家が死去した七年後の天文一二年(1543)直家一五歳は、備前天神山城主にして浦上村宗次男・宗景(むねかげ)の奥女中をしていた母の尽力で、改めて浦上氏に仕えました。

浦上村宗長男の政宗は、父の死後家督を継ぎ、弟宗景(むねかげ)と対立。永禄七年(1564)政宗は、嫡子清宗の妻に姫路城主・黒田官兵衛黒田官兵衛の娘を迎える婚礼の日、赤松晴政の忍び者に清宗とともに暗殺されました。

2.浦上氏のもとで

直家は、浦上宗景のもとで家名を再興し、備前西南部へ進出、手段を選ばぬ方法で主家の勢力拡大に寄与しました。三一歳の時に妻の父を殺して沼城を乗っ取り、 祖父を殺した浦上氏重臣・島村豊後守をこの沼城におびき出して殺害。

永禄九年(1566)三八歳の時には、備中の覇者・三村家親を暗殺して備前侵入をくい止め、四〇歳の時には娘の嫁ぎ先である備前最大の土豪松田氏を金川城に滅ぼしました。

同年、尼子氏滅亡。毛利元就毛利元就が中国地方に勢力を伸ばしていましたが、元亀二年(1571)に元就死去。天正元年(1573)直家四五歳は、岡山に本城を築きました。

3.独立―毛利か織田か

天正五年(1577)直家四九歳は、毛利氏小早川隆景毛利輝元毛利輝元)と手を組み、主家の浦上宗景を追放し没落させ、備前・美作・備中を勢力下とする戦国大名に成長しました。

その頃、中央では織田信長信長が台頭。信長配下の豊臣秀吉羽柴秀吉が播磨路に侵入を始めると、直家は毛利氏と羽柴勢の進出を阻みました。しかし全国統一目前の信長に帰順し、毛利氏とは敵対関係になり、毛利氏と交戦中に岡山城で病死しました。享年五三

直家は、祖父の恨みを晴らすという「根拠」あっての戦国の梟雄(きょうゆう)。個人的には元就や前田利家の方が後世の評価も高い分、どうかと思います。

宇喜多直家 相関図

宇喜多氏

  1. 曾祖父:久家。宇喜多氏三代。
  2. 祖父:能家(よしいえ)。久家の子。
  3. 父:興家(おきいえ)
  4. -:直家
  • 兄弟:春家、忠家-坂崎直盛
  1. 子:秀家(妻おふく(法鮮尼)との子)
  2. 孫:秀高、秀継ほか

浦上氏

  • 則宗:赤松政則の臣。
  • 村宗:則宗の孫。
  • 政宗:村宗長男、宗景:村宗次男

諸国

参考文献

  1. 水野恭一郎「宇喜多直家」『国史大辞典2』(吉川弘文館、1980年)49頁
  2. 原田伴彦「宇喜多直家」『日本歴史大事典1』(河出書房新社、1974年)530頁
  3. 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社 、2009年)「宇喜多直家」204頁
  4. 森本繁「宇喜多直家」『戦国合戦大全 上巻(歴史群像シリーズ 50)』(学習研究社、1997年)138-139頁
  5. 小和田哲男「宇喜多氏」「浦上氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)153頁、156-157頁

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