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戦国人物解説

豊臣秀頼(とよとみ-ひでより)朝鮮出兵最中に誕生した奇跡と余波

目次

プロフィール詳細:1. 鶴松夭折 2.お拾誕生の余波

3.秀吉死後 4.大坂の陣の顛末相関図参考文献関連記事

プロフィール

Hideyori Toyotomi

日本一のボンボン。豊臣秀吉(たぶん)と淀殿の子。

正室は徳川秀忠お江の娘・千姫。

文禄二年朝鮮出兵の最中に生まれ、捨て子はよく育つということで、お拾(ひろい)と名付けられる。(関係ないですが私の曾祖父は捨吉郎でその妻はカス。)

お拾の誕生後、豊臣秀長養子・秀保(ひでやす)が謎の死を遂げ、関白秀次は高野山で自害。秀吉の養子・羽柴秀俊は、小早川隆景の養子となり秀秋と名乗る。

慶長の役の只中で秀吉が死去。幼い遺児・秀頼と一門の運命はいかに――!?

享年23(1593-1615)。徳川家康より50歳年下。同い年に家臣の木村重成

詳細

1.鶴松夭折

豊臣秀頼系図
図:豊臣秀頼系図

豊臣秀吉豊臣秀吉は正室の北政所の他、何人もの側室がいましたが、子供が全くできませんでした。

しかし天正一七年(1589)五月、淀殿淀殿が秀吉の子・鶴松を出産。しかし二年後・同一九年八月に鶴松は三歳で病死しました。同年一二月に秀吉は、関白職を豊臣秀次豊臣秀次に譲り、太閤と称しました。

2.お拾誕生の余波

文禄元年(1592)四月、秀吉の命により日本の諸将朝鮮へ出兵。同二年八月、淀殿が再び秀吉の子を出産。それがお拾(ひろい)、のちの豊臣秀頼秀頼でした。

お拾が生まれたあと朝鮮・明と一時停戦となり、同三年一月秀吉五八歳は、我が子・お拾に大坂城を与えるため、京に伏見城を築きました。

同四年四月、秀吉弟の豊臣秀長秀長養子の秀保(ひでやす)が僅か一七で謎の死を遂げ、同年七月に二八歳の関白・秀次は高野山で自害させられました。

また、秀吉の養子・小早川秀秋羽柴秀俊は、小早川隆景小早川隆景の養子となり秀秋と名乗りました。このようにお拾の誕生によって、豊臣一門がよからぬ方向に進行。その先に、慶長二年(1597)再びの朝鮮出兵がありました。

同三年、秀吉六二歳は秀頼五歳の好き嫌いにを理由に、侍女を処罰。秀頼に宛てた手紙には「中納言(秀頼)様の気にさわる者は死ぬほど叩きなさい」と書いてありました。

3.秀吉死後

同年八月、慶長の役の只中で父秀吉が死去。慶長四年(1599)一月、秀頼は伏見城より大坂城に移りました。

翌年九月の関ヶ原の戦いで、豊臣方が敗北し、天下の実権は徳川家康徳川家康に移り、豊臣は摂津・河内・和泉三国を領するだけの一大名に収まりました。

二年後の同八年(1603)秀頼一一歳は、家康の孫で徳川秀忠秀忠崇源院お江の娘・千姫七歳と婚姻。

同一六年(1611)家康七〇歳は、秀頼一九歳を二条城に呼んで臣下の礼をとらせました。秀頼は身長六五寸(約197cm)、体重四三(約161kg)の大柄だったようです。久しく会ってなかった、成長した秀頼を見た家康は危機感をおぼえました。

4.大坂の陣の顛末

自分の目の黒いうちに豊臣を潰しておきたい家康は、同一九年(1614)一〇月に挙兵。大坂の陣において、豊臣方として真田幸村真田幸村らが奮闘。翌年、秀頼二三歳は千姫一九歳を大坂城から逃がし、淀殿と一緒に豊臣家と共に自害しました。

秀頼と千姫の間には子供がいませんでしたが、側室の間には一男・一女がありました。家康はそれを知らなかったらしいです。落人(おちうど)狩りで、落城時に脱出した七歳の息女が捕まって、初めてそれを知った家康は男子探索を命令。

かくして国松(くにまつ)という八歳になる男子を、すぐに発見。家康の処分は、京都市中引き回しのうえ、六条河原で首をはねるという厳しさでした。ここに豊臣氏は滅亡しました。

豊臣秀頼 相関図

豊臣氏

  • 父:秀吉、母:淀殿
  • 兄:鶴松(秀頼誕生前に病死)
  • 正室:千姫(秀忠お江の長女)。本多忠刻(ただとき:忠勝の孫、忠政長男)と再婚、忠刻三一歳死後、出家し江戸城竹橋内に住んだ。享年七〇

側室:成田助直の娘との子

  • 国松
  • 天秀法泰尼(てんしゅう-ほうたいに):大坂落城後、千姫の養女。鎌倉の東慶寺に入り、のち住持。諸堂を再建し、男子禁制・縁切寺法の特権を守った。享年三七

家臣

ライバル

参考文献

関連記事

豊臣秀頼:肖像素材イラスト