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戦国武将解説

藤堂高虎(とうどう-たかとら)

プロフィール

藤堂高虎
Takatora Todo

滋賀県出身。三重県・津藩(つはん)藩祖。幼名は与吉。

文禄・慶長の役の海戦において日本側の主役的存在。

転職を繰り返し、前半生は浅井長政の家臣や織田信長の甥などに属し、豊臣秀吉の弟・秀長の筆頭家老になった後に秀吉の直臣。

関ヶ原の戦いでは徳川家康に属して功を立て、最終的に伊達政宗と並んで家康の側近のような立場となった。

関ヶ原に先立つ文禄・慶長の役では、日本水軍の将として救国の英雄・李舜臣と死闘を繰り広げる。しかし李舜臣に勝ったことがない!?

特技は築城。享年75(生1556-没1630)。上杉景勝より1つ年上、徳川家康より13歳年下。

詳細

1.転職の度にスキルアップ?

文禄年間 中国・四国諸大名配置図
図1:文禄年間 中国・四国諸大名配置図

藤堂高虎高虎は若い頃から、豊臣秀吉豊臣秀吉の様に「絶対出世してやるんだ!!」という情熱を持っていました。

その為には駄目そうな主君とは縁を切って、別の主君に仕えるということを何度も繰り返します。

すごいのは、浅井長政浅井長政はじめ、縁をきった主家は必ず滅びてゆくのです。高虎はなんという先見の明の持ち主でしょう。

そんな高虎ですが、二一歳の時に仕えた秀吉の弟・豊臣秀長豊臣秀長は、崇敬してやまない主君でした。しかし高虎三六歳の時に秀長病死(享年52)。

秀長の旧領は、秀長の養子・秀保(ひでやす)が譲り受けました。その中に紀伊国の海賊衆があり、文禄の役が始まると、一四歳の秀保の名代として高虎は、紀伊国の海賊衆を率いて朝鮮へ渡海。

帰国後、文禄四年に秀保が死去(享年17)。絶望して高野山にいた高虎を秀吉が召し出し大名に取り立てました。然しながら宛がわれた新所領地が水軍の国・伊予(愛媛県)板島だった為、慶長の役にも水軍として再び渡海するのでした。

2.玉浦海戦

玉浦海戦(VS藤堂高虎)
図2:玉浦海戦

それでは文禄・慶長の役において、救国の英雄・李舜臣李舜臣のライバルとなった高虎の死闘を見ていきましょう。

秀吉の命で文禄の役が始まると、文禄元年(1592)四月十三日、第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智が朝鮮の釜山(プサン)に上陸。怒涛の進撃で日本軍は僅か半年で首都・ソウルまで制圧してしまいました。

その頃、高虎は水軍の将として巨済島(コジェド)の玉浦(オクボ)に停泊。

全羅左水使・李舜臣が七十四隻の船を率いて巨済島の玉浦に現れると、高虎率いる五十余隻に猛烈に大砲を発砲。

この奇襲に対し、高虎は二十六隻もの船を失いました。 しかし朝鮮水軍は一隻失ったのみ。この瞬間、高虎が日本軍として初の敗戦武将に輝いてしまったのでした。

その後も日本水軍は苦戦が続き、見かねた秀吉が、村上水軍の雄 来島通総来島通総はじめ、 九鬼嘉隆九鬼嘉隆脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明らを水軍に投入しましたが結果は同じで、李舜臣に撃破され続けました。

3.漆川梁海戦

慶長の役地日本軍進路
図3:慶長の役 日本軍進路図

文禄の役のあと一時停戦を経て、慶長の役が始まりました。その頃、李舜臣は同僚の元均(ウォン・ギュン)の陰謀よって更迭され、元均が朝鮮水軍を率いていました。

高虎・脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明ら率いる日本水軍は漆川梁(チルチョンリャン)にて元均率いる朝鮮水軍を撃破。陸地に逃れた元均は、陸地で待機していた島津義弘島津義弘軍が襲撃、元均は敗死。

これにより李舜臣は朝鮮水軍最高司令官として復帰するものの、朝鮮水軍は十三隻しか船が残っていませんでした。

4.鳴梁海戦

鳴梁海戦
図4:鳴梁海戦

慶長二年九月、高虎・加藤嘉明・来島通総来島通総・脇坂安治らが朝鮮水軍の十倍の兵船一三三隻を率いて鳴梁(ミョンリャン)海峡に迫りました。

しかしこの時、日本水軍は朝鮮水軍の罠にかかっていました。

船数が圧倒的に多い日本軍に正面から戦うのは無理だと考えた李舜臣は、自軍にとっても難所である鳴梁海戦の西側に 東から攻めて来る日本水軍を誘い込む作戦だったのです。

海戦の当初、潮流は東から西に向かい、朝鮮水軍にとっては逆流で苦しい戦闘を強いられました。 しかし潮流が西から東に代わると、潮の流れに乗った朝鮮水軍の大逆襲が始まります。

これにより日本側は多くの兵船三十一隻を失い、来島通総は戦死、高虎は重傷。朝鮮水軍は大勝を得ました。

5.水軍の将としての高虎

関ヶ原合戦直前地図_中国・四国
図5:関ヶ原合戦直前地図_中国・四国

帰国後、関ケ原の戦いには徳川家康徳川家康に属して慶長一三年(1608)に伊予,伊賀二二万九五〇石を与えられて津城に入り、大坂の陣後三二万四〇〇〇石に加増されました。

高虎は水軍の武将というよりは、城作りの武将とか伊達政宗伊達政宗と並んで徳川家康徳川家康の側近のようなイメージの方が強いかと思います。

しかし文禄・慶長の役において、小西行長小西行長加藤清正加藤清正が陸上戦の主役的存在であれば、高虎は海戦の主役的存在であり、李舜臣のライバルとして捉える視点もあった方が面白いかと思います。

あと、側室を持たず愛妻家であった一面もちょっと見逃せないかも?!享年75。

エピソード

高虎は貧しい頃、餅屋さんで餅をさんざん食べた後、お店の人にお金がないので、出世払いで宜しく!と言いのけました。しかし出世した後、 お店の人に大金を渡しました。高虎の旗印はこのお餅をデザインしたものと言われています。

藤堂高虎相関図

華麗なる転職歴

ガラスの?10代

浅井長政浅井長政の家臣の阿閉政家(あつじまさいえ)、磯野員昌(いそのかずまさ)に仕える。

織田信長織田信長の甥・織田信澄(のぶずみ)に仕える。

21歳~36歳

豊臣秀長豊臣秀長は終生崇敬してやまない元主君。秀長、秀長の養子・秀保(ひでやす)が死ぬと絶望の余り一時高野山に入る。

37歳~43歳

豊臣秀吉豊臣秀吉に召し出されて大名になる。

45歳~

徳川家康徳川家康は最後に仕えた主君。伊達政宗伊達政宗と並んで側近のようになる。

文禄・慶長の役

ライバル:李舜臣李舜臣元均

日本水軍の仲間たち:九鬼嘉隆九鬼嘉隆脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明来島通総来島通総

  

藤堂高虎関連リンク

肖像素材軍旗素材/イラスト:リアルほっこりPOP

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