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戦国人物解説

佐竹義宣(さたけ-よしのぶ)伊達・北条に挟まれた常陸の大名

目次

プロフィール詳細:1.常陸守護家 2.父・鬼義重

3.摺上原の戦い 4.小田原合戦 5.三成を救う 6.関ヶ原の戦い

7.秋田での治世相関図参考文献関連記事

プロフィール

佐竹義宣
Nobuyoshi Satake

常陸国(茨城県)の大名。のちに秋田藩祖。幼名・徳寿丸。

秀吉が発した私闘禁止令を破って、会津に侵攻してきた伊達政宗。これに猛将の父・義重が、摺上原に敗北を喫す。

一方、関東の北条氏も私闘禁止令を無視して、上野(群馬県)真田昌幸領に侵入。秀吉は北条氏政・氏直父子を討伐すべく、小田原に向けて京を出発。

これに真田軍、義宣率いる佐竹軍も加わる。義宣は秀吉に謁見して、常陸・下野を安堵される。こうした過程で石田三成に助けられた義宣。

三成の危機に際してこれを救うも、関ヶ原に際し父が反対するっぺよお~

享年64(1570-1633)。同世代に政宗、真田幸村宇喜多秀家など。

詳細

1.常陸守護家

文禄年間 東日本諸大名配置図
図:文禄年間 東日本諸大名配置図

清和源氏の末流である佐竹氏は、常陸の守護

源義光の孫の昌義(まさよし)が常陸久慈郡佐竹郷(茨城県太田市)に土着して、佐竹氏を称したのに始まります。昌義は奥州の藤原清衡の娘と結婚し、常陸の七郡を支配。しかし子の隆義が源頼朝挙兵も平氏に味方したため、多くの所領を没収されました。

鎌倉幕府滅亡後、八代・貞義(さだよし)は足利尊氏に従い、常陸守護に任じられ、代々の佐竹氏に引き継がれました。また旧来の所領も回復。子の九代・義篤は足利直義の軍に属し、箱根竹下で新田義貞軍を破りました。

2.父・鬼義重

戦国時代、義宣の父・一八代義重(よししげ)は、猛将で「鬼武蔵」「坂東太郎」の異名をとりました。

けだし義重は、常陸南部の小田氏治や陸奥南部の結城義親を破り、佐竹の領土を過去最大のものとしました。そして、越後の上杉謙信上杉謙信や下野(栃木県)の宇都宮広綱と手を結び、関東の北条氏政北条氏政と対峙しました。

天正一二年(1584)豊臣秀吉秀吉は、小牧・長久手の戦いにおいて織田信雄織田信雄徳川家康徳川家康連合軍と争ったあと、同一四年(1586)関東・奥州に惣無事令いわゆる私闘禁止令を発しました。

3.摺上原の戦い

同年、義重の嫡子である義宣一七歳は、事実上家督を継ぎました。一方、義重は次男・義広を後継者が絶えた会津蘆名家の養子として、佐竹・蘆名連合軍を結成しました。

伊達政宗伊達政宗は秀吉から何度も上洛を催促されながらも無視し、私闘禁止令も破って天正一七年(1589)六月、突如会津に侵攻。摺上原(すりあげはら)の戦いで、蘆名氏を滅ぼしました。これにより義重も東北での影響力を失いました。

4.小田原合戦

一方、上野(群馬県)沼田北条領を預かっていた北条氏邦は、その支配を家臣の猪俣邦憲(いのまた-くにのり)に命じました。しかし同年一〇月、猪俣が真田昌幸真田昌幸の上野名胡桃(なぐるみ)城を急襲し、奪い取ってしまいました。

かくして九州を制圧し秀吉にとって、次の攻撃目標は私闘禁止令を破る北条と伊達に絞られました。一方、この年、義重は家督を義宣に譲りました。

同一八年(1590)三月一日に秀吉の軍勢が、北条氏政・氏直父子を討伐すべく、小田原に向けて京を出発。小田原城攻撃が開始された四月、義宣は秀吉に従わない者たちを次々と撃破。五月、義宣は一万余騎を従え小田原の陣へ至り、秀吉に謁見して常陸・下野を安堵されました。

5.三成を救う

秀吉の死後、石田三成石田三成と家康との対立が表面化。これに便乗した三成嫌いの加藤清正加藤清正福島正則福島正則黒田長政ら七将が、前田利家前田利家邸に詰めていた三成を襲撃しようとしました。この動きを察知した三成は、密かに前田邸から自邸に脱出。

この時、義宣は京・伏見の屋敷にいました。かつて義宣は三成の勧めで小田原の城攻めに参陣。また政宗の横暴に関して三成を通じて訴え、政宗の非が認められました。

三成窮地の騒動を聞くと義宣は、すくさま大坂に駆けつけ、三成を伏見まで警護して送りました。ついで三成は伏見の徳川家康徳川家康邸に逃げ込んで保護を求めました。三成を襲撃しようとした清正らは、家康邸を攻めるわけにもいかず、この騒動は三成と義宣の大成功におさまりました。

6.関ヶ原の戦い

慶長五年(1600)九月の関ヶ原の戦い。義宣三一歳は当然ながら三成方の西軍につくつもりでしたが、父義重や家臣東義久らの強い反対により、常陸水戸で中立の立場を取りました。

これにより同七年(1602)七月、家康によって義宣は常陸から出羽秋田へと国替えを申し渡されました。五四万五〇〇〇――実質八〇万石から、二〇万五〇〇〇石への減封でした。

7.秋田での治世

同年九月、義宣は旧領主の秋田氏の居城である湊城(秋田市)に入部。義宣は、久保田神明山(同市)に城を築いて、翌同八年(1603)に湊城から久保田城に移りました。また久保田は碁盤の目のように整備され、城下町として発展を遂げました。

一方、義宣は新田開発の奨励や鉱山開発を手掛け、藩財政を支えました。慶長一七年(1612)義重は六六歳で死去。翌年の大坂の陣に義宣四五歳は東軍として参陣。

久保田城は土塁だけの質素な城でしたが築城に約三〇年要して、寛永八年(1631)に完成。同一〇年一月、義宣は六四歳の生涯を閉じました。茶道に通じ、遺言で殉死を禁じました。

佐竹義宣 相関図

佐竹氏

  • 始祖:昌義
  • 祖父:義昭(佐竹氏一七代)
  • 父:義重(同一八代)
  • 弟:蘆名義宏(盛重)、岩城貞隆

出羽久保田藩(秋田藩)

  1. 義宣:初代
  2. 義隆:岩城貞隆の子。義宣の養子となり、同藩主二代。以後、同藩は幕末まで存続。

諸国

参考文献

関連記事

佐竹義宣 イラストDAPPE