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戦国武将解説

佐久間信盛(さくま-のぶもり)

プロフィール

佐久間信盛
Nobumori Sakuma

織田家老臣の一人だが、信長にリストラされた波乱万丈な武将。

武田信玄VS徳川家康の三方ヶ原の戦いで、家康の要請により織田軍の援軍として参戦したが大敗。

武田勝頼VS信長の長篠の戦いでは、先鋒隊をつとめ因縁の武田軍を打ち破る。

しかし、顕如率いる石山本願寺攻めの長期化を信長に責められ、解雇された。享年55?(生1527?-没1581)

詳細

1.織田家老臣、まさかのリストラ

尾張に生まれで幼名は牛助。織田信長織田信長より7歳年長である信盛は、柴田勝家柴田勝家と並ぶ信長の老臣の一人です。

しかし、本能寺の変で明智光秀明智光秀によって信長が討たれる二年ほど前に信長によってリストラされ、高野山に追放されしまいました。

2.信長の父の代から仕える

信盛は初め、信長の父・信秀に仕え、のちに信長に従いました。

永禄十一年(1568)信盛41歳の時、信長の上洛に従い、京都近辺の政務に関与するとともに、各地を転戦しました。

3.三方ヶ原の戦いで大敗

元亀三年、信盛45歳の時、徳川家康徳川家康が、武田信玄武田信玄の三河侵攻に対し信長に援軍を要請しました。

信長は、本願寺顕如朝倉義景朝倉義景浅井長政浅井長政の包囲軍に敷かれていて動けなかった為、なんとか信盛・滝川一益・平手長政ら三千の兵を三方ヶ原の戦いに送りました。

しかし武田軍二万五千に対し、徳川軍は援軍合わせても一万千。しかも信玄はいくさ上手。信盛と一益は余りお役に立てず、平手長政はなんと戦死。この戦いは徳川・織田軍の大敗に終わりました。

4.長篠の戦いで勝利

その後、天正二年(1574)、信長が勅許を得て東大寺秘蔵の蘭奢待(らんじゃたい・中国から伝来した香木)を切り取った際には、奉行を務めました。

また、信長が伊勢長島の一向一揆を攻めた時は、柴田勝家らと攻め入り、一揆を鎮圧しました。

天正三年、信盛48歳の時、武田勝頼武田勝頼が三河長篠に進出した際は、信長に従って先鋒隊をつとめ、滝川一益とともに鉄砲隊を指揮して、因縁の武田軍を打ち破りました。

5.運命の石山本願寺攻め

天正四年以降は、顕如が守る石山本願寺攻めに参戦し、近江・尾張など7か国の軍勢を指揮しましたが、荒木村重の反乱などで長期化しました。

天正八年、信盛54歳の時に石山開城となるも、その十日後、突然信長から、その怠慢を責めた譴責(けんせき)状を突き付けられ、信盛は子の信栄とともに高野山へ追放されました。

その一年後、紀伊国十津川の温泉で病気療養中に病死しました。享年55

6.譴責状の内容

さて、『信長公記』には信長が信盛に突き付けた譴責(けんせき)状の内容が記載されているのでご紹介します。

「一、父子(信盛・信栄)共に五か年天王寺に在城している間、よい武勲が一つもなかった。

一、先年(天正元年)、朝倉勢を討ち取った時、勝機をのがしたことをけしからぬと申した所、恐縮するどころか自分の正当性を吹聴し、座敷をけって出た。これによって信長は面目を失った。

一、信栄の心ばえのよくないことは、一つ一つ数えあげても書ききれないほどである。

一、第一に欲が深い。その上いいかげんに物事を処理し、とどのつまり父子ともに武士の道に欠けているからこのような事になった。

一、やさしいふりをして、実際には錦の中に針を隠し立て、家臣に恐ろしい扱いをしたのでこのような事になった。

一、信長の代になって三十年も奉公している間に、比類のない働きをしたと称されるようなことは一度もなかった。」

第一に欲が深いとか、信長が毒舌すぎて噴き出してしまいました。ごめん、信盛!

佐久間信盛相関図

織田家

主君:織田信長織田信長

同僚:柴田勝家柴田勝家丹羽長秀丹羽長秀滝川一益など

ライバル

武田信玄武田信玄武田勝頼武田勝頼

信盛と同じく信長から失礼な文書をもらった武将

足利義昭足利義昭

  

佐久間信盛関連リンク

佐久間信盛イラスト

織田信長家臣団相関図 

参考文献

国史大辞典編集委員会『国史大辞典 (6) 』(吉川弘文館、1985年)

会田雄次『戦国百人一話〈1〉織田信長をめぐる群像 (青人社百人一話シリーズ) 』(青人社、1991年)