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戦国人物解説

榊原康政(さかきばら-やすまさ)能書の徳川猛将、首に賞金懸かる

目次

プロフィール詳細:1.家康の小姓 2.小牧・長久手の戦い

3.関ヶ原の戦い 4.若死の子たち相関図参考文献関連記事

プロフィール

榊原康政
Yasumasa Sakakibara

家康の家臣で徳川四天王の一人。上野国(群馬県)館林の武将。

織田家を乗っ取ろうとする秀吉を、達筆で対抗、すなわち檄文を書いて非難。秀吉から怒りを買い、康政の首に一〇万の賞金がかかる。

関ヶ原の戦いでは現地に向かう途中、放っておけばよかった真田昌幸幸村父子に手こずってしまう――!

享年59(1548-1606)。同い年は本多忠勝西笑承兌北政所。家康より5歳年下。

詳細

1.家康の小姓

東海地方_戦国時代地図
図:東海地方_戦国時代地図

足利氏の支流の榊原氏は、清長のとき伊勢(三重県)一志(いちし)郡榊原村(久居(ひさい)市)から三河(愛知県)に移って松平氏に仕えました。

その孫の榊原康政康政は、永禄三年(1560)桶狭間の戦い直後の一三歳のとき、岡崎城に帰還した徳川家康徳川家康の小姓に取り立てられました。三河一向一揆攻めの功により康政の名を与えられ、以後各地の戦いで活躍して徳川四天王の一人と称されました。

2.小牧・長久手の戦い

織田信長織田信長死後、天下を狙う豊臣秀吉羽柴秀吉が動き出します。これを阻止すべく天正一二年(1584)信長次男の織田信雄信雄・家康連合軍が秀吉と小牧・長久手で戦うことになりました。

そのとき康政が「信長の家臣であった秀吉が、その恩も忘れて信孝様(信長三男)を滅ぼし、今度は信雄様を討って主家を乗っ取ろうとしている。主君家康公、今、大意の為に秀吉を討ち滅ぼしましょう。」といった檄文(げきぶん)を書きました。しかも達筆でした。

これに怒った秀吉は、康政の首に一〇万石の賞金をかけたので、逆に康政の株が益々上がる結果に。一方、長久手にあって先鋒隊の康政は、秀吉軍最後尾の豊臣秀次秀次軍を攻撃。ふいをつかれた秀次軍は、敵の二倍の兵力を持ちながらあっけなく敗走。この戦いで秀吉軍の池田恒興森長可森長可は戦死しました。

同一八年(1590)家康が関東に移封されると、康政は上野(こうずけ:群馬県)館林一〇万に封ぜられました。

3.関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いの際に康政は徳川秀忠徳川秀忠に属して、家康と別ルート中山道を進軍。途中に真田昌幸真田昌幸真田幸村幸村親子の上田城がありました。

徳川は以前、真田氏との戦いに敗北していたため、秀忠は昔の屈辱を果たそうと思いました。一緒についてきた家康側近の本多正信は断固反対しましたが、康政は秀忠に賛同。

かくして戦いの火蓋は切られましたが、徳川勢は少数の真田勢に敗北。現地・関ヶ原戦には間に合いませんでした。

4.若死の子たち

戦後、家康は水戸二五万石を与えようとしましたが、康政はこれを固辞。慶長五年(1600)六年間老中に就きましたが「老臣が権を争うは亡国のもと」といって、政治向きのことは本多正信らに任せたと言います。

康政が五九歳で死去。三男康勝が跡を継ぎ、館林藩主二代となりました。長男忠政は外祖父・大須賀氏を継いでいましたが、康政死後翌年に二七歳で死去。康勝は大坂の陣で戦功を立て、同二〇年(1615)二六歳で死去。康勝に嫡嗣なく、忠政の子・忠次が家康の命で館林の榊原氏を継ぐことになりました。

忠次は陸奥白河(福島県)藩を経て、播磨(兵庫県)姫路藩主一次初代一五万石。子孫は越後(新潟県)村上、再び姫路などを経て、寛保元年(1741)越後髙田(一五万石)にうつり、幕末まで続きました。

榊原康政 相関図

榊原氏

  • 祖父:清長
  • 父:長政、母:道家氏
  • 兄:清政(家康の子・信康を補佐。享年六二)
  • 妻:大須賀(おおすか)康高の娘
  • 長男:大須賀忠政
  • 三男:康勝。妻は加藤清正の娘。

播磨姫路藩(譜代)

  1. 忠次:忠政長男、康勝養子。妻は黒田長政の娘。
  2. 政房:忠次の子。

徳川政権

諸国のライバル

参考文献

関連記事

榊原康政:肖像阿古陀形