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文禄・慶長の役

南原城の戦い 秀吉朝鮮侵攻、惨状ここに極まる

目次

慶長の役の流れ基本データ解説:1.経緯 2.戦闘

参考文献関連記事

慶長の役の流れ

慶長二年(1597) 慶長三年(1598)
日本軍北上 形勢逆転 日本軍南下 倭城に籠る 8月秀吉死去、続々と帰国 最後の戦い
7月中旬 8月中旬 9月初旬 同中旬 12月下旬 10月初旬 9~10月初旬 11月中旬
漆川梁海戦 南原の戦い 稷山の戦い 鳴梁海戦 蔚山の戦い 泗川の戦い 順天の戦い 露梁海戦

基本データ

概要

  • 年月日:慶長2年(1597)8月12日~16日
  • 場所:全羅道 南原邑城(ナモヌプソン,남원읍성)
  • 概要:第二次晋州城の戦いを彷彿させる日本軍オールスターによる大量殺戮。

陣容

日本軍 56,000人

明・朝鮮連合軍 5,000人

  • 大将:明 副総兵 楊元(ようげん)
  • 明軍(3,000人):李新芳(りしんほう)
  • 朝鮮軍(1,000人):全羅兵使・李福男(イボクナム)、助防将・金敬老(キムキヨンノ)、別将・申浩(シンホ)、防禦使・呉対井(オウンジョン)、南原府使・任鉉(イムヒョン)、南原判官・李徳(イドク)フエ、求礼県監・李元春(イウォンチュン)、順天府使・呉応鼎(オウンジョン)、接伴使・鄭期遠、閔濬(ミンジュン)
  • その他:南原周辺の庶民・婦女子、降倭ら。

結果

日本軍:南原城陥落、大量殺戮と鼻切りを行う。/明・朝鮮連合軍:楊元脱出、朝鮮軍全滅。

解説

1.経緯

慶長の役_主な戦い
図1:慶長の役 日本軍進路図

豊臣秀吉豊臣秀吉の命により慶長二年(1597)、日本軍朝鮮へ再侵攻

同年七月、藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治らが漆川梁元均率いる朝鮮水軍を撃ち破りました。

八月はじめ、日本軍は総大将・小早川秀秋小早川秀秋を釜山に留め、軍全体を左右に分けて、毛利秀元毛利秀元を総帥とする右軍(加藤清正・黒田長政ら)は慶尚道から北上して、首都ソウル再侵入を目指しました。

宇喜多秀家宇喜多秀家を総帥とする左軍(小西行長・島津義弘ら)は慶尚道から穀倉地帯の全羅道・南原(邑ゆう)城へ進軍しました。

2.戦闘

南原の戦い
図2:南原の戦い

南原(ナモン)城は、文禄の役で攻略できなかった全羅道の要衝。

漆川梁海戦後、七日島津義弘島津義弘軍が、八日には水軍の藤堂高虎軍が南原に迫りました。

南原城には、明副総兵の楊元(ようげん)率いる三〇〇〇人が進駐し、更に全羅兵使・李福男(イボクナム)率いる朝鮮軍一〇〇〇人余が合流し、防衛にあたりました。

一二日、先鋒の小西行長小西行長軍が南原城近くで放火。一三日に東西南を包囲。一五日、楊元は日本軍に和議を申し入れましたが、行長は楊元に直ちに退城をすることを要求。これには楊元も拒否せざるをえませんでした。

一六日、日本軍五六〇〇〇人が南原城の四方を包囲。東面は蜂須賀家政・生駒一正ら、南面は宇喜多秀家・藤堂高虎・脇坂安治・軍目付の太田一吉ら、西面は島津義弘・長宗我部元親長宗我部元親・小西行長・宗義智宗義智・軍目付の竹中重隆ら、北面は黒田長政黒田長政加藤嘉明加藤嘉明来島通総来島通総・毛利吉成(2,000)ら。

激戦の末、明副総兵・楊元は真っ先に南原城を脱出。これに対し、全羅兵使・李福男(イボクナム)はじめ取り残された朝鮮軍は全滅し、南原城は陥落しました。然しながら南原周辺の庶民、婦女子までも果敢に戦い、降倭も力戦。朝鮮側の記録によると、この時、降倭たちは「多数賊を斬り、その身に至っては傷をこうむっても顧みず」ほどに勇敢に戦いました。

この時の様子は、南原城外で見ていた金孝義(キムヒョイ)という者が柳成龍に詳細に伝えました『懲毖録』。南原の戦いでは、大量殺戮と徹底した鼻切りが行われました。諸大名は家臣が切り取った鼻を軍目付へ差出し、鼻請取状をもらいました。これは諸大名にとっては戦功のあかしであり、実際の文書が現在まで多く残っています。

姜沆は文官として南原で軍糧を運搬する監督をしていましたが、南原落城後、藤堂高虎の軍に捕らわれて、日本に連行されました。

参考文献

関連記事:文禄の役