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戦国武将解説

毛利輝元(もうり-てるもと)

プロフィール

毛利輝元
Terumoto Mori

広島県の戦国大名。五大老の一人。晩年は山口県を治める。

毛利元就の孫。幼名は幸鶴丸(こうづるまる)。

自分は控えに回って一門の武将を輝かせる、名プロデューサー。

毛利両川(叔父の吉川元春・小早川隆景)withテルで中国筋に威勢を及ぼし、石山合戦において織田信長の水軍を破るが、二年後に信長方の九鬼嘉隆の甲鉄軍艦に敗れる。

本能寺の変後、羽柴秀吉の天下取りに貢献。元春は九州征伐の陣中で死去。文禄の役では隆景と共に渡海する。

帰国後に隆景が病死、毛利両川を失うが、これにより秀元withテルが誕生。慶長の役で輝元は壱岐まで出陣、いとこの秀元は隆景以上の活躍を見せた。

関ヶ原の戦いで敗れて領地の大部分を削られ、山口県・萩に移る。家督を子の秀就(ひでなり)に譲り秀元が秀就を後見、反抗態度をとる者もいる中で藩政を仕切る、輝元最後の戦いが始まる――

享年73(生1553-没1625)。宣祖沙也可より一つ年下。金時敏より一つ、上杉景勝より二つ年上。

詳細

1.毛利両川withテル

天正期の瀬戸内海周辺諸国
図1:天正期の瀬戸内海周辺諸国

輝元は天文二二年(1553)正月、毛利元就毛利元就の長男・隆元の長男として生まれ、三歳の時に元就VSの厳島の戦いがありました。

永禄六年に父・隆元が急死して一一歳で家督を相続。

元就の後見を受け、元服し第一三代将軍・足利義輝の一字を拝領して毛利輝元輝元と名乗りました。

一九歳の時に元就も他界。輝元は毛利両川と呼ばれる叔父の吉川元春・小早川隆景小早川隆景の助けられて、中国筋に威勢を及ぼしました。

2.織田水軍との死闘

天正四年(1576)二月、織田信長織田信長に追われた第一五代将軍・足利義昭足利義昭を迎えた輝元は、石山本願寺と結んで信長との対決を決意。隆景は厳島の戦い同様、三島村上水軍に応援を要請しました。

かくして村上水軍(能島・因島)を味方につけた毛利水軍は同年七月、織田水軍を破って石山城に兵糧を運び入れることに成功しました(第一次木津川口海戦)。

しかし二年後、信長方の九鬼嘉隆九鬼嘉隆が甲鉄軍艦六隻を中心にした水軍が、本願寺を守る毛利水軍を攻めると無敵の毛利水軍は敗れました(第二次木津川口海戦)。

3.秀吉に借りを作る

文禄年間 中国・四国諸大名配置図
図2:文禄年間 中国・四国諸大名配置図

天正一〇年(1582)輝元三〇歳の時、信長の一介の武将である豊臣秀吉羽柴秀吉が備中高松城を囲むと、輝元は両叔父と共にこれを救って、秀吉と決戦せんとしたところ、本能寺の変がありました。

両軍は和議を講じ、これより毛利一族は秀吉に従うことになり、豊臣政権下において輝元は徳川家康徳川家康前田利家前田利家などと共に重きをなし、また秀吉より羽柴氏を許されました。

これに先立って叔父の元春が、秀吉の九州征伐の陣中で五七歳の生涯を閉じました。

天正一七年(1589)輝元三七歳の時、居城を安芸吉田郡山から広島に移転。広島という地名は輝元が命名しました。

4.文禄の役

朝鮮全土_文禄の役
図3:文禄の役 日本軍進路と国王避難路

豊臣秀吉豊臣秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月十三日、日本軍朝鮮へ侵攻。毛利一族の動員数は大名家の中で最も多く主力をなしました。

四〇歳の輝元は小早川隆景隆景と共に渡海。第七軍の輝元の担当区域は、朝鮮南東の慶尚道(キョンサンド)。

第七軍の任務はもっぱら、日本全軍の出発点である釜山(プサン)日本本営に留まり、ココを守備することです。実際輝元は、朝鮮での主たる戦闘に一切加わっていません。

一方、第六軍の隆景は立花宗茂立花宗茂と共にソウルの北方の碧蹄館(ピョクジェグアン)で提督李如松率いる明軍を撃破。輝元は隆景より先に文禄二年の秋に帰国。

文禄四年(1595)に輝元と隆景は五大老に就任しましたが、隆景は二年後に病死しました(享年六五)。

5.慶長の役

慶長の役日本軍進路と主な戦い
図4:慶長の役 日本軍進路図主な戦い

輝元は両叔父を失いましたが、一門には期待の大型新人がいました。その名も毛利秀元毛利秀元。秀元の父は元就の四男で輝元のいとこにあたります。

輝元に子がなかった為、秀元は輝元の養子となりましたが、文禄四年(1595)に秀就(ひでなり)が生まれると別家して独立しました。

一時停戦時を経て慶長二年(1597)二月、秀吉が朝鮮再出兵の陣立てを定め、再び日本軍が朝鮮へ侵攻。四五歳の輝元は壱岐まで出陣。

一九歳の秀元は、宇喜多秀家宇喜多秀家と共に全軍の総帥となって、明・朝鮮軍の攻撃から加藤清正加藤清正黒田長政黒田長政を救うというまさかの大活躍を見せました。

6.西軍を裏切りる一門たち

関ヶ原合戦直前の諸大名配置図
図5:関ヶ原合戦直前の諸大名配置図

秀吉が死去すると、家康が天下を取ろうと動き出します。家康と親しかった輝元は、家康に加担するつもりでした。しかし家康の天下取りを許さない石田三成石田三成に説得され、輝元は西軍の総大将として大坂城西の丸に籠りました。

これにより一族の毛利秀元秀元・いとこの吉川広家・隆景養子の小早川秀秋小早川秀秋も西軍に組し関ヶ原へ出陣。三成は輝元に出馬を促しましたが、その密書は途中敵の手中に落ちて大坂に達しませんでした。

現地本戦。秀元と共に南宮山にあった広家は家康に内応していた為、南宮山の毛利本隊を動かさず、秀秋においては戦闘中に家康に寝返って東軍・家康方の勝利に大きく貢献しました。

これにより改易は免れたものの、毛利の七か国一二〇万石は周防・長門(いずれも山口県)三七万石へと減封されました。

7.最後の試練

慶長五年(1600)一一月、輝元は剃髪して宗瑞また幻庵と称し、隠居して家督を秀就を譲り、秀就が初代長州藩主となりました。

しかし秀就はまだ六歳だった為、輝元が藩政を執行、長門萩に新城を築いて移りました。秀元は三万六千石を分与され初代長府(ちょうふ)藩となり、長門城にいて宗家秀就を後見。

輝元は、知行が小さくなり反抗態度をとる者もいる中、一族家臣を慎重にまとめあげ、幕府との関係にも心を砕き、大坂冬の陣に病をおして出陣。萩城内で七三歳の生涯を閉じました。

8.人物像

慶長の役で日本に抑留された姜沆(カン・ハン)の『看羊録(かんようろく)』によれば、「倭のうちでは、いくらか慎み深い。性質はとてもゆったりと大らかで、わが国人の気性によく似ている、という」

「輝元が宇喜多秀家宇喜多秀家と共に秀吉の命令におさえられて、やむえずわが国の人の鼻を削いだときも、いくらかのあわれみの気持ちがあった、という」とあり、輝元の生き様と一致しています。

長い間、勘違いしていたけど、テルこそ名将に違いない。

元春・隆景や秀元における一門の輝かしい戦場での活躍も、輝元が控えに回って彼らに活躍の場を与えたともいえますし、そういう控え目な輝元だからこそ自然にこの人を支えなきゃなってなりますよね。

それにしても剃髪して宗瑞(北条早雲)また幻庵(早雲の四男)と称しって、自分とこの爺さんより北条好き?(笑)情報求ム。

毛利輝元相関図

家族

おじいちゃん:毛利元就毛利元就

叔父さん:吉川元春と小早川隆景小早川隆景

いとこ:毛利秀元毛利秀元・隆景養子の小早川秀秋小早川秀秋

石山合戦

ライバル:織田信長織田信長九鬼嘉隆九鬼嘉隆

味方:足利義昭足利義昭本願寺顕如

豊臣政権

主君:豊臣秀吉豊臣秀吉

五大老:徳川家康徳川家康前田利家前田利家宇喜多秀家宇喜多秀家・隆景死去は上杉景勝上杉景勝

  

毛利輝元関連リンク

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文禄・慶長の役

相関図

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戦後

日朝国交回復年表

参考文献

国史大辞典編集委員会 編集 『国史大辞典〈13〉 』(吉川弘文館 1992年 )

平凡社編『日本人名大事典〈第6巻〉マテ~ワ (1979年) 』(平凡社、1979年)

姜沆(著), 朴 鐘鳴 (翻訳) 『看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記 (東洋文庫 440) 』(平凡社、1984年)