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戦国武将解説

毛利秀元(もうり-ひでもと)

プロフィール

毛利秀元
Hidemoto Mouri

長門国(現・山口県)長府(ちょうふ)初代藩主。特技は茶道と和歌。

父は毛利元就の四男。慶長の役は、当時十代だった秀元青年なしで語れない。

文禄の役では、(数えで)15歳にして前年に朝鮮軍に敗れた晋州城再攻撃の為、伊達政宗浅野長政らとともに増派軍として戦う。

慶長の役では、19歳にして宇喜多秀家と共に全軍の総帥となって朝鮮へ渡海。

忠清道を目指して北上していた黒田長政の軍が稷山(チクサン)で明軍の迎撃を受けると、救援に駆けつけ、黒田隊の危機を救う。

その二か月、明軍の楊鎬と麻貴及び朝鮮軍・権慄ら六万の大軍が加藤清正蔚山倭城を包囲。清正以下二千の日本軍を救出する為、秀元・黒田長政らが蔚山に駆けつける――!

享年72(生1579-没1650)。宇喜多秀家より7つ年下、小早川秀秋より3つ年上、徳川秀忠と同い年。

詳細

1.父は毛利元就の四男

慶長前期地図_中部・四国地方
図1:慶長前期地図_中部・四国地方

秀元毛利秀元素材の父は、毛利元就毛利元就の四男・穂田元清、母は村上水軍の来島通康の娘で、天正七年(1579)一一月に備中(現・岡山県)猿掛城に生まれました。

毛利宗家の毛利輝元毛利輝元に子がなかった為、七歳の時にその養子となりました。

しかし文禄四年(1595)一七歳の時に輝元の実子・秀就(ひでなり)が生まれたので、別家して独立しました。

2.文禄の役、始まる

文禄の役地図__毛利秀元
図2:文禄の役_後半戦

さて、これに先立つこと三年前。豊臣秀吉豊臣秀吉の明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月に日本軍朝鮮に侵攻しました。

破竹の勢いで朝鮮を北上し、都・漢城(ソウル)まで落とした日本軍でしたが、同年十月の第一次晋州城の戦いでは、金時敏郭再祐金誠一ら朝鮮軍に大敗。

更に翌年二月には幸州(ヘンジュ)で権慄率いる朝鮮軍にも大敗。

日本軍はソウルからの撤退を決定しましたが、秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた前年に敗れた晋州城を再び攻撃することを厳命。

その為に増派されたのが弱冠十五歳の秀元と伊達政宗伊達政宗浅野長政浅野長政らの部隊でした。

3.第二次晋州城の戦い

第二次晋州城の戦い
図3:第二次晋州城の戦い

これにより文禄二年(1593)六月、第一隊・加藤清正加藤清正黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂島津義弘島津義弘、第二隊・小西行長小西行長宗義智宗義智細川忠興素材細川忠興伊達政宗伊達政宗浅野長政浅野長政黒田官兵衛黒田官兵衛、第三隊・宇喜多秀家宇喜多秀家石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継、第四隊・毛利秀元、第五隊・小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

十一日間の激戦の末、晋州城陥落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

4.慶長の役・右軍総帥

慶長の役日本軍進路図_右軍01
図4:慶長の役 日本軍進路図_右軍

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより十九歳の秀元は、八番隊として宇喜多秀家と共に出兵。

これに対して明は、朝鮮に援軍を再派遣。指揮官には経略・邢玠と楊鎬、提督・麻貴らがいました。

同年七月、藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治らが漆川梁(チルチョンリャン)で元均率いる朝鮮水軍を撃ち破りました。

八月はじめ、日本軍は総大将・小早川秀秋小早川秀秋を釜山に留め、軍全体を左右に分けて、宇喜多秀家を総帥とする左軍(小西行長・島津義弘ら)は慶尚道から全羅道・南原へ。

秀元を総帥とする右軍(加藤清正・黒田長政ら)は慶尚道から北上して忠清道を目指しました。

同月一八日、宇喜多秀家率いる左軍は、明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を落とし、秀吉の命令によって日本軍による大量殺戮と鼻切りを行われました。

5.稷山(チクサン)の戦い

明の経略・楊鎬はこの頃、平壌にいましたが、事態の深刻化を受けソウルに南下。提督・麻貴と作戦を定め、忠清道・稷山(チクサン)で日本軍を迎撃することにしました。

慶長二年(1597)九月七日、忠清道を目指して北上していた黒田長政黒田長政の先鋒隊と明軍が稷山で衝突。後続の黒田長政と秀元が救援にかけつけ、激戦となって両軍多数の死者を出し、両軍とも引き上げました。

この戦いによって日本軍はこれ以上北上できず、都・漢城(ソウル)侵入は果たせませんでした。

更に稷山の戦いの十日後、李舜臣李舜臣が朝鮮水軍を率いて鳴梁(ミョンリャン)海峡で、藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明来島通総来島通総ら水軍を撃破。 明・朝鮮軍が本領を発揮し始めました。

6.蔚山の戦い

倭城分布図_慶尚道南東海岸
図5:倭城分布図_慶尚道南東海岸

稷山の戦いから二か月後の十一月、加藤清正加藤清正浅野幸長浅野幸長らは、蔚山(ウルサン)の島山に倭城普請に取りかかりました。邢玠・楊鎬・麻貴の次の狙いは日本軍のシンボリックな存在・加藤清正でした。

十二月二三日、楊鎬・麻貴率いる明軍と権慄率いる朝鮮軍併せて六万の連合軍が、日本軍二千余が籠る蔚山倭城を包囲しました。

城内は食糧もなく、敵に水道も断たれたため、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出。

城内の疲労は限界に達し、清正は楊鎬が持ちかけた和議に乗ろうとしました。

7.救援軍として駆け付ける

蔚山の戦い
図6:蔚山の戦い
明・朝鮮連合軍、城を包囲し外廓を突破

しかし年明け正月二日に、秀元・黒田長政・鍋島直茂・加藤嘉明加藤嘉明ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。

五日、楊鎬が全軍に撤退命令を出して十日余続いた蔚山の戦いはついに終了。

しかし秀元ら救援軍は敗走する敵軍を追撃しませんでした。理由は、救援を急いで兵糧も兵士の数も満足でなかったことや、自分の居城(倭城)が心もとないのが原因でした。

同年(慶長三年)八月に秀吉が死去。日本軍の帰国が始まると、日本軍追撃戦として同年十一月に朝鮮水軍の李舜臣李舜臣と明水軍都督の陳璘が、露梁(ノリャン)で島津義弘島津義弘立花宗茂立花宗茂らの水軍を撃破して、七年にも及ぶ朝鮮の役はようやっと幕を閉じました。

8.長府藩初代となる

帰国後、慶長四年(1599)四月・二一歳の秀元は豊臣秀長豊臣秀長の娘(秀吉の養女)と結婚。

翌年九月の関ヶ原の戦いでは、二二歳の秀元は東軍に意を通じていましたが、毛利輝元毛利輝元が大坂城に入った為、やむをえず西軍として毛利本隊を率いてて南宮山に布陣。

しかし、甥の吉川広家らが徳川方に内通していた為、戦わずして敗れました。戦後の毛利氏は長門・周防(いずれも現・山口県)二国に削封され、輝元は隠居。

秀元は宗家から三万六千石を分与され長府(ちょうふ)藩初代となり、長門城にいて宗家秀就を後見。

妻は慶長一四(1609)に死去し、慶長一八年(1613)・三五歳の秀元は継室として松平康元の娘(徳川家康徳川家康の養女)と結婚。また大坂の陣では秀就とともに従軍し、功を立てました。

茶道や和歌に堪能で、茶人・古田織部の高弟。寛永二年(1625)・四七歳の時には将軍徳川家光徳川家光の御伽衆に加えられ、茶を献じ、和歌を詠んで賞賛され、六十を過ぎても家光との交流は続きました。慶安三年(1650)死没。七二歳。

それにしても文禄・慶長の役の秀元の年齢をはじきだした時は驚きましたね。日本軍の主力は十代の少年って、秀吉の朝鮮侵攻は一事が万事どうかしてる。

毛利秀元 相関図

家族

祖父:毛利元就毛利元就/実父:元就の四男・穂田元清

伯父:小早川隆景小早川隆景

いとこ:父方は 毛利輝元毛利輝元小早川秀秋小早川秀秋、母方は来島通総来島通総

正室:豊臣秀長豊臣秀長の娘(秀吉の養女)/継室:徳川家康徳川家康の養女

第二次晋州城の戦い増派軍

伊達政宗伊達政宗浅野長政浅野長政

慶長の役

左軍総帥:宇喜多秀家宇喜多秀家

稷山(チクサン)の戦い

味方:黒田長政黒田長政

ライバル:明の経略 楊鎬、提督 麻貴

蔚山の戦い

蔚山倭城:加藤清正加藤清正浅野幸長浅野幸長

救援軍:黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂加藤嘉明加藤嘉明

ライバル:明の経略・楊鎬、提督・麻貴、朝鮮軍・権慄

茶道と和歌の才を買ってくれた人

徳川家光徳川家光

  

毛利秀元 関連リンク

肖像素材/イラスト:全体像ほっこり

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

参考文献

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

国史大辞典編集委員会 編集 『国史大辞典〈13〉 』(吉川弘文館 1992年 )

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)