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戦国武将解説

黒田官兵衛(くろだ-かんべえ)

プロフィール

黒田官兵衛
Kanbe Kuroda

豊前国(福岡県東部と大分県北部)の戦国大名。幼名は万吉。

官兵衛は通称で正式名は孝高(よしたか)。号は如水(じょすい)。洗礼名はドン・シメオン。羽柴秀吉の軍師で茶人としても有名。

秀吉が天下を統一とすると政治の中枢からは外れるが、秀吉の明国制圧の為の本営・肥前名護屋の設計を担当。

文禄の役では朝鮮へ渡り、ソウルに召集された日本の大名たちに明軍からの攻撃対処について助言し、第二次晋州城の戦いに参戦した。

慶長の役でも朝鮮へ渡り、慶尚道梁山(ヤンサン)倭城に在って、しばしば明軍と戦う。

関ヶ原の戦いでは徳川家康に与(くみ)し、大友義統(よしむね)の軍と戦ってこれを破り、毛利勝信を攻めて小倉城を陥落させるが――

享年59(生1546-没1604)。徳川家康より3歳年下。竹中半兵衛より2歳年下。

詳細

1.有岡城に幽閉される

黒田官兵衛官兵衛は美濃守・職隆(もとたか)の子として、播磨国(兵庫県)姫路に生まれました。

父・職隆は、播磨国(兵庫県)の赤松氏の一族で御着(ごちゃく)城主の小寺政職(こでら-まさもと)に属し、小野寺姓を名乗り姫路城を預かりました。

毛利氏と織田信長織田信長が台頭すると、父・職隆と官兵衛は主君の政職を説得して政職と共に信長に臣従。天正五年(1577)三二歳の官兵衛は、中国征伐の為に播磨に入った信長の家臣・豊臣秀吉羽柴秀吉を姫路城で迎い入れました。

同年、織田の外様大名で有岡城主の荒木村重が信長に謀反を起こすと、村重に呼応して政職も毛利氏に寝返りました。

官兵衛は村重を説得し荒木村重のいる有岡城に赴きましたが、逆に村重に捕らえられて有岡城の牢に幽閉されてしまいました。

一年後に官兵衛は救出されましたが、幽閉されていた時に片足を痛めて片足不自由になってしまいました。政職は織田に攻められて落城、逃走しました。

2.天下統一の為、転戦しまくる

官兵衛は信長が死去した後も秀吉に属し、三〇代後半は秀吉天下統一の為に各地を転戦。明智光秀明智光秀を討つ為の山崎の戦い、柴田勝家柴田勝家を討つ為の賤ヶ岳の戦い、長宗我部元親長宗我部元親を討つ為の四国征伐、いずれの合戦においても功を立てました。

天正一五年(1587)秀吉が自ら九州に入ると、四一歳の官兵衛は豊臣秀長羽柴秀長に属して豊後(大分)から日向(宮崎県)に進んで大いに功を立て、豊前国(福岡県東部と大分県北部)一二万石を賜りました。

3.宇都宮鎮房を暗殺

文禄年間九州の諸大名地図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

しかし豊前を賜ったはいいですが、もともと豊前にいる宇都宮鎮房という強力な土豪を倒さなければ豊前を治めることができません。

そこで官兵衛は、鎮房を自分の館に新年の挨拶としておびき寄せて暗殺。官兵衛もできることなら、こんなことはしたくなかった。そんな思いで城内に鎮房を祀る社を建てました。

天正一七年(1589)四四歳の官兵衛は、家督を子の黒田長政長政に譲り、翌年の小田原征伐は秀吉に従い北条氏政北条氏政・氏直父子の降伏に貢献しました。

天下を統一した秀吉の次の目標は明国制圧。その為の本営として肥前名護屋(佐賀県)に築城を九州の諸大名に命令しました。

4.肥前名護屋の縄張り奉行

朝鮮全土_文禄の役の始まり
図2:文禄の役 朝鮮全土関係図
日本軍進路と国王避難路

官兵衛は縄張り奉行として名護屋築城普請に取りかかりました。縄張りとは敷地に縄を張って石垣・堀の位置など城の平面構造を決めることです。

そして秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月十三日、先鋒(せんぽう)隊の小西行長小西行長宗義智宗義智らが釜山に上陸。

これに第二軍の加藤清正加藤清正鍋島直茂鍋島直茂、第三軍の黒田長政長政、第四軍の島津義弘島津義弘、第五軍の福島正則福島正則、第六軍の小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂、そして官兵衛の軍らが続きました。

日本軍は破竹の勢いで北上して僅か二十日で都ソウル・漢城を制圧。小西・宋・黒田長政らは更に北上して同年六月十五日、平壌も制圧しました。

5.朝鮮での軍師官兵衛

しかし朝鮮国王の宣祖と朝廷も逃げているばかりではありません。

同年六月十三日に明に援軍を要請、明は援軍を差し向けました。これにより小西・宋・長政籠る平壌城は、祖承訓・史儒ら明軍に攻撃されますが、日本軍は銃撃を浴びせてこれを撃退しました。

これとほぼ同じ頃、ソウルに秀吉の命で朝鮮奉行の増田長盛・石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継らが着陣。祖承訓の平壌攻撃は日本軍勝利といえど、ソウルの日本軍にも衝撃を与えました。

今後も予想される明の攻撃への対処を話し合う為ソウルで軍議が開催されると、オランカイまで出陣した加藤清正加藤清正鍋島直茂鍋島直茂以外のほぼ全ての大名が集まりました。

官兵衛は兵力と兵糧を分散せず、ソウルの維持を第一とすべきと主張しました。しかし祖承訓を撃退した小西行長小西行長は明への進撃を主張。行長は平壌に帰ってしまいました。

6.秀吉の伝言を伝える前に…

文禄の役地図・石田三成
図3:文禄の役 クライマックス

官兵衛は秋に病を患って一時帰国。

年明けの文禄二年(1593)一月六日、朝鮮では朝鮮の来援として明提督李如松が四万の兵を率いて小西・宋らが籠る平壌城を包囲しました。

小西・宋らは、圧倒的な明軍の兵の数と大砲の威力に敗退。

朝鮮奉行から日本軍平壌撤退を受けた秀吉は、官兵衛と浅野長政浅野長政を朝鮮へ派遣し、兵力再編の指示しました。

しかし官兵衛が朝鮮の日本軍に秀吉の指示を伝える前に、今度はソウルの日本軍が碧蹄館で李如松の攻撃に合い撃退するも、その後の幸州(ヘンジュ)権慄率いる朝鮮軍に敗北してしまいました。

ソウルの日本軍はソウルからの撤退を決定しました。

7.第二次晋州城攻防戦

しかし秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた前年に敗れた晋州城再び攻撃することを厳命しました。

これにより文禄二年(1593)六月、第一隊の加藤清正加藤清正黒田長政長政鍋島直茂鍋島直茂島津義弘島津義弘、第二隊の小西行長小西行長宗義智宗義智細川忠興素材細川忠興伊達政宗伊達政宗浅野長政浅野長政・官兵衛、第三隊の宇喜多秀家宇喜多秀家石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継、第四隊の毛利秀元毛利秀元、第五隊の小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

十一日間の激戦の末、晋州城陥落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

8.慶長の役と関ヶ原の戦い

慶長の役日本軍進路図_右軍01
図4:慶長の役 日本軍進路図_右軍

一時停戦時を経て慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定めました。

これに伴い五二歳の官兵衛と子の黒田長政長政は再び渡海。

官兵衛は総大将・小早川秀秋小早川秀秋の補佐役でしたが、慶尚道梁山(ヤンサン)倭城に在って、しばしば明軍と戦いました。

秀吉が死去し帰国後、関ヶ原の戦いで官兵衛は徳川家康徳川家康に与(くみ)しました。そして豊後石垣原において大友義統(よしむね)の軍と戦ってこれを破り、豊前小倉の毛利勝信を攻めて小倉城を陥落させ、北九州をほぼ平定。

しかし家康の命で水俣で兵を止めて豊前へ帰りました。関ヶ原の功により長政が筑前一国に移されると官兵衛も福岡に移りました。享年五九

9.人物評

国史大辞典』柴田一雄氏によれば、官兵衛は"石田三成石田三成らとは異なり内政よりも軍事に長じ、軍師として優れた能力を発揮した。"と評しています。

また『日本人名大事典』高柳光壽氏によれば、"なほ孝高のことについては、従来誤り伝へられていることが非常に多いから注意を要することを一言して置く"と意味深です。

私としては、秀吉の天下統一までは豊臣の中枢にあったけれど、三成台頭後は官兵衛よりむしろ家督の長政がよくも悪くも文禄・慶長の役で奮戦し、豊臣での黒田家の存在感を示すことに成功したと思います。

意外にこれ程コンビネーションが抜群の親子というのは、ありそうでないんじゃないかな?と思います。

黒田官兵衛相関図

家族、家臣

息子:黒田長政黒田長政/家臣:後藤又兵衛 

豊臣家

主君:豊臣秀吉豊臣秀吉

上司:豊臣秀長豊臣秀長/同僚の軍師:竹中半兵衛竹中半兵衛

仲間:浅野長政浅野長政

ライバル

官兵衛を幽閉した武将:荒木村重  

反派閥:石田三成石田三成

  

黒田官兵衛関連リンク

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イラスト

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

参考文献

国史大辞典編集委員会『国史大辞典 (4) 』(吉川弘文館、1984年)

平凡社編『日本人名大事典〈第2巻〉カ~コ (1979年) 』(平凡社、1979年)

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)