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戦国武将解説

金地院崇伝(こんちいん-すうでん)

Sden Konchiin

プロフィール

僧侶にして家康のブレーン。

臨済宗の僧侶で南禅寺の金地院に住んでいた。

秀吉のブレーン・西笑承兌の紹介で家康に接近、以後、幕府の外交事務を担当。

方広寺鐘銘事件では豊臣家に難癖をつけ大坂の陣のキッカケ作りに成功。

紫衣事件では沢庵和尚を流刑にしてしまい、世の誹謗を浴びる。享年65(生1569-没1633)

詳細

1.南禅寺の金地院に住む

江戸時代初期の臨済宗の僧侶で、別名は以心崇伝(いしん-すうでん)。

足利義輝の家臣、一色秀勝の子で、室町幕府滅亡後に南禅寺に入り、建長寺住職を経て、37歳で南禅寺住職となりました。衰微していた南禅寺の塔頭の一つである金地院を復興して同院に住んだ為、金地院崇伝と呼ばれています。

2.家康との出逢い

臨済宗の僧侶且つ豊臣秀吉豊臣秀吉の政治顧問である西笑承兌西笑承兌は、秀吉死後は徳川家康徳川家康に仕えた人物ですが、承兌の推薦により、崇伝は40歳の時に駿府で家康に会いました。

これがキッカケで外交事務を任されるようになり、のちに幕府の外交事務のほとんどは崇伝の手によって行われることとなりました。

42歳の時、駿府に金地院を建てて移り住み、44歳以降は板倉勝重らとともに諸寺院の取締りなど宗教関係の行政にもあたりました。

3.方広寺鐘銘事件

晩年の家康は、豊臣家を潰すチャンスを探っていました。そんな時、豊臣秀頼豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の銘が刻まれていました。

崇伝はこの時、これを家康を切り裂いて呪い、豊臣家が栄えるのを願うものだという難癖をつける役目を果たし、大坂の陣のきっかけを作りました。また崇伝とともに板倉勝重も暗躍していたそうです。

4.天海に敗れても金地院魂衰えず

家康死後は、家康を日光山に神として祭るのに、その称号を「権現」とすべきか「明神」とすべきかで、同僚の南光坊天海と大論争が起こります。明神を主張した崇伝は権現を主張した天海に敗れてしまいました。

それでもこの時はまだ幕府の中枢にあり、今度は江戸の芝に金地院を建てました。また!?(笑)

5.紫衣事件

紫衣(しえ)は高位・高徳の僧に着用する紫色の布衣や袈裟で、紫衣の着用には朝廷の認可を必要としました。

くわえて幕府は1613年、朝廷の許可以前に幕府の事前認可を必要とすることを規定。これは幕府の、朝廷側や寺院勢力への統制強化の一環でした。

幕府が1627年、紫衣着用の朝廷許可を無効にしたところ、翌年、大徳寺の玉室宗珀と沢庵宗彭(有名なあの沢庵和尚さんのこと)らが抗議。

崇伝は、玉室宗珀と沢庵宗彭の処分に厳科を主張し、両人を流罪に処し、世の誹謗を受けました。3年後沢庵に対しては徳川家光徳川家光によって赦免が出され、崇伝の声望はようやく衰えました。

6.黒衣の宰相?

さて、僧であって政治を左右する者を「黒衣(こくえ)の宰相(さいしょう)」と呼び、崇伝や天海がなどがこのように称されます。

しかし幕府における崇伝の職責は、あくまで外交文書や法度などの文章作成。政策決定に参加するするものではありませんでした。

よって三代家光まで仕えた天海は別として、崇伝における「黒衣の宰相」という後世の評価は高木昭作氏も指摘するように過大評価と言えそうですが、その職務上の記録である「異国日記」「本光国師日記」などは幕政の重要史料です[註1]。享年65

金地院崇伝相関図

主君

主君:徳川家康徳川家康

臨済宗の先輩

西笑承兌西笑承兌

ライバル

淀殿(茶々)素材淀殿(茶々)豊臣秀頼豊臣秀頼

同僚

南光坊天海林羅山本多正信板倉勝重

  

金地院崇伝関連リンク

徳川家康家臣団、外様大名

補注及び参考文献

註1:高木昭作『日本史大事典〈1〉 』(平凡社、1992年)

参考文献:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第1巻 あーい 』(吉川弘文館、1979年)