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戦国武将解説

加藤嘉明(かとう-よしあき)

プロフィール

加藤嘉明
Yoshiaki Kato

文禄・慶長の役の水軍将。伊予松山城主、のちに会津若松城主。

初名・茂勝、通称は孫六、左馬助(さまのすけ)。三河に生まれ、馬喰(ばくろう・馬の売買を行う人)だった孫六青年は馬を売りに岐阜まで出かける。

そこで織田信長に仕える加藤景泰に出逢い、その才を買った景泰が羽柴秀吉に推挙。かくして秀吉に仕えた嘉明は奮戦し、賤ヶ岳の七本槍の一人となる。

文禄・慶長の役では、水軍将として救国の英雄・李舜臣率いる朝鮮水軍に挑む。

しかし脇坂安治が手勢のみで巨済島に出撃、これを九鬼嘉隆と共に追いかけ、藤堂高虎(伊予板島)とは功を争うようになり遂には絶交に至ってしまう――!

享年六九(生1563-没1631)。万暦帝細川忠興と同い年。福島正則より二つ加藤清正より一つ年下。

詳細

1.加藤景泰にスカウトされる

加藤嘉明嘉明は、松平氏に仕えていた父・岸三丞教明と母・川村氏の子として永禄六年(1563)三河国(愛知県)に生まれました。

幼名を孫六と称した嘉明は、一二歳ごろまで近江(滋賀県)長浜で馬喰(ばくろう・馬の売買を行う人)に養われていたとされます。

ある日、馬を売りに岐阜に行くと、岐阜城主・織田信長織田信長に仕える加藤景泰(光泰の父)に出逢いました。

景泰は馬の優劣を見定めるききめで、孫六が売り込む馬は「駿馬だが癖がありそうだ」と買うのをためらうと、孫六はこの馬に乗り、馬は鞭に従って駆け回り、やがておとなしく頭をたれました。

感嘆した景泰は、孫六を屋敷に招きれ、 馬喰にしておくのは勿体ないとして、豊臣秀吉羽柴秀吉に推挙したと言われています。

2.賤ヶ岳の七本槍

文禄年間 中国・四国諸大名配置図
図1:文禄年間 中国・四国諸大名配置図
嘉明は伊予松崎城主

秀吉に仕えることになった嘉明は、同一一年(1583)二一歳の時の賤ヶ岳の戦い(VS柴田勝家柴田勝家)では、加藤清正加藤清正福島正則福島正則脇坂安治脇坂安治らと共に七本槍の一人として功を立てました。

翌年の小牧長久手の戦い(VS織田信忠織田信雄徳川家康徳川家康)、佐々成政佐々成政の成敗に功があり、伊予(愛媛県)松崎(松前)城六万石に封じられました。

3.文禄の役のはじまり

文禄の役地図_海戦
図2:文禄の役 朝鮮全土関係図
日本軍進路と主な戦い

秀吉の明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月十三日、第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智らが釜山に上陸すると、日本の諸将が次々と朝鮮へ侵攻。三〇歳の嘉明もこれに続きました。

日本軍は僅か二十日で都・ソウルの漢城を制圧。日本軍に次々と敗れる中で、李舜臣李舜臣が水軍を率いて巨済島(コジェド)の玉浦(オクポ)で藤堂高虎藤堂高虎の水軍を撃破し、朝鮮軍最初の一勝を挙げると、その後も次々に海上で日本軍を撃退。

そのあとも日本水軍の苦戦は続いたため、秀吉は第五軍に配属した村上水軍の雄・来島通総来島通総を水軍に投入するもこれまた李舜臣に撃破されてしまいました。

4.閑山島・安骨浦海戦

閑山島海戦
図3:閑山島海戦

しかしこれで負けを認める秀吉ではありません。今度は織田信長の水軍将として無敵の毛利水軍を破った実績のある九鬼嘉隆九鬼嘉隆と、水軍の国の脇坂安治脇坂安治(淡路洲本)と嘉明(伊予松崎)を水軍に投入することにしました。

朝鮮水軍が手ごわいことを認識した秀吉は、安治・嘉隆・嘉明の三水軍将に防戦を命令。然しながら功名を焦った安治は抜け駆けして手勢のみで同年七月八日、巨済島(コジェド)に出撃してしまいました。

これを待ち構えていた李舜臣率いる朝鮮水軍が閑山島(ハンザンド)沖で亀甲船十一隻を加えた六十余隻で猛攻。

日本軍七〇余隻は五十九隻の兵船を失い、安治は九死に一生を得ました。損害が僅か四隻の朝鮮水軍の完勝でした。

安治の救援に九鬼嘉隆と嘉明が駆けつけましたが、劣勢を知ると安骨浦(アンゴルポ)に引き揚げてしましました。しかし同年七月十日に李舜臣率いる朝鮮水軍は安骨浦の九鬼・加藤らを襲撃、これも撃破しました。

翌年、嘉隆・嘉明・安治の三人組は秀吉の命令で安骨浦に倭城を築城し、一年交代で在番を勤めました。

5.鳴梁海戦

慶長の役地図_宇喜多秀家
図4:慶長の役 日本軍進路図

一時停戦を経て、慶長の役が始まると三五歳の嘉明は再び朝鮮へ渡海。この頃、李舜臣李舜臣は同僚の元均の陰謀よって更迭され、元均が朝鮮水軍を率いていました。

慶長二年(1597)七月一六日、藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治・嘉明が率いる日本水軍は漆川梁(チルチョンリャン)にて元均率いる朝鮮水軍を撃破し、元均は敗死。

李舜臣が作り上げた朝鮮水軍はこの一戦でほぼ壊滅しましたが、これにより李舜臣が朝鮮水軍最高司令官(統制使)として復帰しました。

同八月一八日、高虎・安治・嘉明は左軍宇喜多秀家宇喜多秀家島津義弘島津義弘と共に明・朝鮮連合軍が死守する南原城を包囲。南原城を落として、大量殺戮と鼻切りを行いました。

九月一六日、高虎・安治・来島通総来島通総・嘉明ら率いる日本水軍一三三隻は、鳴梁(ミョンリャン)海峡にて李舜臣率いる朝鮮水軍十三隻を襲撃。然しながら朝鮮水軍に撃破され、来島通総に至っては戦死しました。

6.蔚山の戦い

倭城分布図_慶尚道南東海岸
図5:倭城分布図_慶尚道南東海岸

一方、明の経略楊鎬と総兵官・麻貴は、右軍の黒田長政黒田長政毛利秀元毛利秀元ら日本軍のソウル再侵入を阻止。

次の攻撃目標を加藤清正加藤清正籠る蔚山倭城定めると、同年十二月二三日に都元帥・権慄と共に明・朝鮮連合軍六万の大軍で蔚山倭城を包囲。

かくして蔚山城内に籠る清正・浅野幸長浅野幸長以下二千余の苦しい戦いが始まり、城中は水も米もなく困窮し、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出。

年明け正月二日に毛利秀元毛利秀元黒田長政黒田長政鍋島直茂鍋島直茂と共に嘉明・長宗我部元親長宗我部元親ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。

慶長三年八月に秀吉が死去し、同年一一月、李舜臣・陳璘率いる朝鮮・明連合水軍が最後の力を振り絞って、露梁(ノリャン)海峡にて島津義弘島津義弘立花宗茂立花宗茂らの船団を撃破して七年にも及ぶこの戦争は幕を閉じました。

7.関ヶ原の戦い

慶長前期地図_中部・四国地方
図6:慶長前期地図_中部・四国地方

文禄・慶長の役で嘉明は、水軍の藤堂高虎藤堂高虎(伊予板島)と功を争うようになり遂に絶交に至りました。

秀吉死後の慶長五年閏三月には、豊臣の大黒柱・前田利家前田利家が大坂城で病死。これを機会に加藤清正加藤清正黒田長政黒田長政福島正則福島正則細川忠興素材細川忠興浅野幸長浅野幸長らと共に嘉明三八歳は、反派閥の石田三成石田三成を大坂で襲い、三成を佐和山に引き籠らせました。

一方、会津の上杉景勝上杉景勝は三成と通じ、東西で徳川家康徳川家康を挟み撃ちすることにしました。これにより家康が会津征伐のため挙兵すると、正則・長政らと共にこれに従軍。 関ヶ原の戦いでは、東軍に属して岐阜城を攻撃、進んで関ヶ原に西軍と戦って功あり、加増を受けて二〇万石を領しました。

8.会津藩主として民政に尽力

松山城
図7:松山城

翌慶長六年、三九歳の嘉明は幕府の許可を得て勝山城を営み、松山と改めました。

家康は、江戸城修築(同一一年)や名古屋城築城(同一四-一五年)のため外様大名にその普請の手伝いをするよう命じました。これにより加藤清正加藤清正黒田長政黒田長政浅野幸長浅野幸長らと共に正則は、人夫を提供しまた自ら石材や木材の運搬を指揮しました。

こうして家康は、依然力を持つ目障りな豊臣恩顧の体力と財力を消耗させていきました。徳川から警戒されていた嘉明は、大坂冬の陣で福島正則・黒田長政らと共に江戸城の留守居役を命じられました。

元和五年(1619)に旧友・福島正則が改易されましたが、寛永四年(1628)嘉明六六歳は会津若松に転じて四〇万石を賜りました。

初め徳川秀忠徳川秀忠は、東北の押さえとして会津の地は藤堂高虎藤堂高虎を封ぜんとしましたが、高虎は老年なので重任を全うできないと固辞して嘉明を薦めました。嘉明はこれを聴いて昔の恨みは捨てて交情を温めたそうです。

かくして会津に入った嘉明は、道路・交通の整備、蠟(ロウ)・漆・漆器の産業育成、鉱山の開発などに尽力しました。享年六九。

嘉明の跡を継いだ子の明秋は、家老の堀主水と対立、家臣の統制のわるさ民政の悪さを上げられて、四〇万石を没収されました。

嘉明の人生を丁寧に追っておくと、地味かもしれないけど、結構ドラマチックな人生。素晴らしい掘り出しものを見つけた気がする(笑)

加藤嘉明 相関図

主君

豊臣秀吉豊臣秀吉

仲よし

加藤清正加藤清正福島正則福島正則

文禄・慶長の役

ライバル:李舜臣李舜臣元均

日本水軍の仲間たち:九鬼嘉隆九鬼嘉隆藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治来島通総来島通総

晩年の主君

徳川家康徳川家康徳川秀忠徳川秀忠

  

加藤嘉明 関連リンク

肖像素材/イラスト:リアルびっくり

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

参考文献

平凡社編『日本人名大事典〈第2巻〉カ~コ (1979年) 』(平凡社、1979年)

国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第3巻 か 』(吉川弘文館、1983年)

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

新人物往来社 (編集) 『天下取り採点 戦国武将205人 』(新人物往来社、1998年)