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戦国人物解説

石川数正(いしかわ-かずまさ)家康家老、出奔して松本城築城

目次

プロフィール詳細:1.蟇目役の祖父 2.三方ヶ原の戦い

3.長篠の戦い 4.出奔して松本城主 5.一族その後

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プロフィール

Kazumasa Ishikawa

家康の家老。幼名は助四郎。

祖父・清兼が、松平広忠(家康の父)の信任を得たことにより、広忠は幼少の家康に清兼の孫・数正をつける。家康は、数正を西三河の旗頭に指名。

のち、何故か徳川家を突然出奔。秀吉の所へ行き、徳川家臣団に衝撃を与えた。

そうして親子二代で国宝松本城を作り上げるが、一族の運命はいかに――

享年61(1533?-1592)。

小早川隆景織田信長細川藤孝と同世代。徳川家康家康より10歳年上。

詳細

1.蟇目役の祖父

東海地方_戦国時代地図
図1:東海地方_戦国時代地図

徳川家康家康天文一一年(1542)一二月二六日に生まれたとき、蟇目(ひきめ)役をつとめたのが、石川数正の祖父・清兼(きよかね)でした。

蟇目役とは、出産のとき、妖魔を降伏するために蟇目(目と呼ばれる穴をあけ、音が出る工夫をした鏑矢(かぶらや))を射る係。則ち清兼は、家康の父・松平広忠から、跡継ぎの男子誕生の重要な役を任じられ、いかに重用されていたかが伺えます。

かくして同一八年(1549)家康(竹千代)八歳が駿府(府中)の今川義元今川義元に人質にされた際、広忠は清兼の孫・数正(一七歳?)をつけました。

のち家康は、数正を清兼の次男・家成にかえて西三河の旗頭(はたがしら)に指名。元亀元年(1570)数正(三八歳?)は浅井長政姉川の戦いに従軍しました。

2.三方ヶ原の戦い

永禄一一年(1568)将軍に就任した足利義昭足利義昭はその後、支援者であった織田信長織田信長と次第に対立。

武田信玄武田信玄を味方につけて、同三年(1572)信長の同盟軍である徳川家康を(静岡県)三方ヶ原にて攻撃させました。信長は本願寺顕如との石山合戦で動けなかったため、三〇〇〇の兵を援軍として送りました。

三方ヶ原の戦い対陣図
図2:三方ヶ原の戦い対陣図

武田軍二万五〇〇〇に対し、徳川軍は援軍合わせても一万一〇〇〇。家康は鶴翼(かくよく)の陣を敷いて、右翼に酒井忠次酒井忠次、織田軍の滝川一益・平手長政・佐久間信盛、中央に家康本隊、左翼に本多忠勝本多忠勝・数正らを配しました。

武田軍第一線の小山田信茂隊が、徳川勢左翼を守っていた数正隊に向かって、つぶて(小石)を投げました。この挑発行為に乗せられて激怒した石川隊の若武者たちは、攻撃命令の前に小山田隊めがけ突進。これにより家康は全軍に攻撃命令を出しました。

石川隊は小山田隊を追い込み、さらに武田軍右前衛の山県(やまがた)隊にも襲いました。本多、松平、小笠原もこれに続き、山県隊は後退。しかし徳川隊は後詰めがなく、魚鱗の陣を敷いた武田軍は小山田隊が退いても第二線、三線、四線と余裕がありました。徳川軍は総崩れとなって、浜松城に逃げ帰りました。

3.長篠の戦い

長篠の戦い対陣図
図3:長篠の戦い対陣図

義昭は信玄に上洛を促し、三方ヶ原で家康を破った信玄は北条方の援軍を合わせて三万の大軍をもって西上。しかし天正元年(1573)四月に信州駒場で病死。

その三ヶ月後、家康が兵を従えて、武田方の三河長篠城を包囲。家康は長篠城を手に入れましたが、これを奪還すべく武田勝頼武田勝頼が長篠城を囲みました。

家康は信長に援軍を依頼するため、数正を遣わしました。かくして同三年(1575)五月の長篠の戦いでは徳川軍として数正(四一歳?)も従軍し、武田軍を破りました。

4.出奔して松本城主

甲信越地図_天文・永禄年間
図4:甲信越地図_天文・永禄年間

数正は、豊臣秀吉羽柴秀吉と家康と折衝役としても尽力。信長死後、天正一二年(1584)小牧・長久手の戦いにおいても戦功がありました。

西三河旗頭の名にふさわしく歴戦してきた数正。しかし突然、城代を勤めていた岡崎城を出奔。妻子と家臣を連れて大坂に走り、秀吉の家臣となりました。

天正一八年(1590)北条氏政北条氏政・氏直父子の小田原城を落とした秀吉は、家康を関東に封じ、松本城に数正を配して、関東要の包囲網としました。

松本城は、永正元年(1504)信濃守護・小笠原氏が支城として深志(ふかし)の地に築いたのに始まります。武田信玄武田信玄が信濃に侵攻して小笠原長時を追い、深志城に入りました。武田勝頼武田勝頼が信長に敗れ、また信長が本能寺に倒れると、その間隙をぬって小笠原長時の子・貞慶(さだよし)が深志を回復して、深志城の名を松本城と改めました。

家康が関東に封じられたのに伴い、小笠原氏は下総古河(茨城県)に移され、代わりに数正が入ったのでした。然しながら秀吉は、家康家老の数正に疑いをもっていたので厚遇しませんでした。一方、家康は苦楽を共にしてきた数正の出奔にはかなりの衝撃を受けたよう。いやいや本当に家康のスパイだった?!

5.一族その後

数正死後(享年六〇?)、長男の康長(やすなが)は秀吉の威光を受け、文禄二年(1593)から三年に、拝領紋の五七の桐紋と金箔瓦をいただく、威風堂々の三棟を築造。その遺構は、国宝として今に偲ぶことができます。

康長は、関ヶ原の戦いでは徳川方につきました。慶長一八年(1613)大久保長安と結託し、知行を隠匿したかどで改易となり、家は断絶しました。康長享年八九

数正に旗頭を取って代わられた、蟇目(ひきめ)役ならぬ引け目役に甘んじていた叔父の家成。しかし譜代大名として家成の系統は、転封を重ねて江戸中期に伊勢(三重県)亀山藩主、六万で幕末まで続きました。

石川数正 相関図

石川氏

  • 祖父:清兼。妻は家康の伯母妙西(みようさい)。
  • 父:康正
  • 叔父:家成。子孫は譜代大名として、幕末まで存続。
  • 子:三長(みつなが:康長)、康勝

主君

その他

参考文献

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