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戦国人物解説

池田恒興(いけだ-つねおき)信長乳兄弟の七光、幕末まで及ぶ

目次

プロフィール詳細:1.母は信長の乳母 2.秀吉か信雄か

3.小牧・長久手戦で提案 4.最期 5.子孫は岡山、鳥取藩主

相関図参考文献関連記事

プロフィール

池田恒興
Tsuneoki ikeda

母は信長乳母のため、信長乳兄弟。通称・勝三郎。

石山合戦の最中に、織田方の摂津有岡城主荒木村重が謀反を起こすと、村重を攻めて、その功により有岡の地を与えられる。

信長死後、賤ヶ岳の戦い(勝家VS秀吉)おいては秀吉側として参戦、美濃を賜る。

小牧・長久手の戦いにおいても秀吉側として徳川家康織田信雄連合軍と戦うことを決意。秀吉に秘策を提案するが――

享年49(1536-1584)。同い年は南光坊天海

豊臣秀吉足利義昭より1つ年上、信長より2歳下。

詳細

1.母は信長の乳母

荒木村重_関係地図
図1:荒木村重_関係地図

池田氏の出自には不明なこと多く、恒利(つねとし)が織田信秀(信長父)に仕えたところからでなければ、よくわかりません。恒興は、恒利の子として天文五年(1536)尾張に生まれました。

母は 織田信長信長の乳母になった養徳院(ようとくいん)。赤ちゃんの頃から激しい性格の信長は、乳母の乳を噛み切るため、何人も乳母が変わったと伝えられ、養徳院だけはそれがなかったとのこと。恒興死後も大御乳(おおおち)様と尊称され、九四歳の天寿を全うしました。

恒興は信長より二歳年下の乳兄弟で、母が彼女だったからこそ信長に引き立てられました。永禄三年(1560)恒興二五歳は今川義元桶狭間の戦いで功を立てました。

石山合戦の最中に、信長方の摂津有岡(兵庫県伊丹市)城主荒木村重が謀反をおこすと、天正八年(1580)恒興四五歳は子の元助とともに村重の属城・花隈城(神戸市)を攻略。その功により、同国有岡の地を与えられました。

2.秀吉か信雄か

東海地方_戦国時代地図
図2:東海地方_戦国時代地図

同一〇年(1582)明智光秀本能寺の変が起こると、豊臣秀吉羽柴秀吉とともに山城で光秀を討ちました。

尾張清州城で行われた清州会議では、柴田勝家柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀丹羽長秀とともに宿老に列し、諸将への所領の充行状に連署しました。

翌年の賤ヶ岳の戦い(勝家VS秀吉)では、秀吉側について参戦。信長三男・信孝が領していた美濃一三万を与えら、美濃・大垣に移りました。

同一二年(1582)清州会議の結果に満足いったわけではない信長次男織田信雄信雄は、徳川家康徳川家康を味方につけて、秀吉と断交。美濃にいる恒興や森長可森長可などは、信雄と秀吉の双方から招かれました。信長乳兄弟の恒興は、信長遺児の信雄か秀吉か、どちらにつくべきか迷いに迷って秀吉に味方することに決めました。

3.小牧・長久手戦で提案

こうして同年三月六日、小牧・長久手の戦いが起こり、秀吉軍と家康・信雄連合軍が対峙。秀吉軍は数の上では圧倒的に優勢でしたが、焦りは強くなっていきました。

そのとき恒興は「小牧山に軍勢が結集されたため、家康の本国である三河は守りが手薄になっているに違いない。その隙に三河を攻撃してしまえば、家康の軍隊は大混乱に陥るはずだ。」と秀吉に提案。

秀吉は迷いましたが、甥の豊臣秀次秀次までが三河攻撃の大将を務めると言ってきたため、恒興の作戦を採用しました。

4.最期

長久手隊として先手・池田恒興隊、二番・森長可隊、三番・堀秀政隊、四番・秀次隊で合計二万の大部隊のが組織されると、長久手隊は隠密行動で三河に侵攻。

しかし途中、情報が家康に漏れて伝わり、家康はただちに一万の対撃隊を組織して進軍。そうとは知らない恒興らは、長久手近くで岩崎城という小城と小競り合いをしていました。

その時、家康の対撃隊である先鋒の榊原康政榊原康政が、秀吉軍最後尾の秀次軍を攻撃。ふいをつかれた秀次軍は、敵の二倍の兵力を持ちながらあっけなく敗走。

危ういところを助かった秀次の急報により、富士ヶ根付近まで戻った恒興隊と長可隊は、ここでついに家康隊と対峙。狭い地域での大激戦が始まり、あっという間に恒興は子の元助とともに四月九日戦死。また、鬼武蔵と名高い森長可も戦死しました。享年四九

5.子孫は岡山、鳥取藩主

次男・輝政は父亡きあと美濃大垣を継ぎ、秀吉の九州攻めなどに従軍。家康の次女・督姫(とくひめ)を継室に迎え、関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒として活躍。

その功により播磨姫路藩初代、五二万石。ほか備前(岡山)二八万石、淡路(兵庫県)六万石に加増され「姫路宰相百万石」、また「神君の婿」「西軍の将軍」と称されました。享年五〇。輝政の遺領は、長男・利隆(としたか)が播磨、次男忠継が備前、三男忠雄(ただかつ)が淡路を継承。

利隆長男の光政は三二万石に減ぜられ因幡鳥取藩主、のちに備前岡山藩主池田氏初代。三一万五〇〇〇石。儒者の熊沢蕃山の説く心学を信奉し、家臣にもその学習を勧めました。享年七四。忠継の孫で、光政従弟の光仲の系統は因幡鳥取藩主となり何れも幕末に至りました。

池田恒興 相関図

池田氏

恒興

  • 父:恒利、母:養徳院。信長の乳母。
  1. 長男:元助。
  2. 次男:輝政。播磨姫路藩初代。
  3. 三男:長吉。享年四五

輝政

  1. 長男:利隆。母は糸姫。享年三三。 - 光政:備前岡山藩主初代。
  2. 次男:忠継。母は家康次女・督姫。家康の寵愛を受ける。享年一七。
  3. 三男:忠雄。同母。兄忠継のあとを継ぐ。享年三一。 - 光仲:因幡鳥取藩初代。

ライバル

小牧・長久手の戦い

味方

敵軍

参考文献

  • 福田栄次郎「池田恒興」『国史大辞典1』(吉川弘文館、1979年)470頁
  • 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)「小牧・長久手の戦い」138-143頁
  • 小和田哲男「池田氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)106-111頁

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