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戦国武将解説

林羅山(はやし-らざん)

プロフィール

林羅山
Razan Hayashi

江戸幕府の御用儒学者。

もともとは一介の浪人の子だっざたが、学問が得意で、近世儒学の先駆・藤原惺窩(せいか)に入門。

日本初、市民のための古典公開講座を公家の批判を受けながらも開講。

惺窩の紹介で家康に接近、江戸幕府の儒官を代表する林家の始祖となる。

当時は学問は身分の高い人のものであったが、身分の低い人も学問できる世界の突破口を開いた。享年75(生1583-没1657)

詳細

1.本能寺の翌年に生まれる

林羅山は江戸時代初期の儒学者であり、江戸幕府の儒官を代表する林家の始祖です。

名は信勝、通称は又三郎、道春。祖父・正勝は加賀の浪人で、紀州で没し、そののち一家は京都に移りました。

天正11年(1583)、羅山は京都四条新町に信時の長男として生まれました。羅山誕生の前年の天正10年には本能寺の変があり、誕生の年には賤ヶ岳の戦い 、大坂の築城があって、秀吉の政権が確立した時代でした。

2.藤原惺窩との出逢い

13才で京都五山の一つである建仁寺で教育を受けましたが、僧にはならずに15歳で寺を出て帰宅しました。そのあとも読書に励み、慶長5年18歳の時に関ヶ原の戦いがあって、徳川家康徳川家康の覇権が確立しました。

慶長9年22歳の時、吉田与一(角倉了以の子)の紹介で、時の儒宗・藤原惺窩(ふじわら‐せいか)に入門。

その際に羅山が提出した「既読目録」には、四百四十余りの書名が列挙され、その中には経学、諸子百家、史書、兵学、本草など多方面の漢籍が含まれ、その学力が高かったことを示していました。

3.市民の為の古典公開講座

羅山は、17、18歳の頃から朱子学に関心を深め、22、3歳の頃には朱子の注釈による「論語」の公開の講義を京都の市中で行いました。

これはそれまで、秘伝として貴族や僧侶の間で伝授されてきた古典に関する知識を一般に広めようとする、啓蒙的文化活動でした。

公家の清原秀賢は、これを禁止するよう、家康に訴えましたが、家康は笑って取り合いませんでした。

4.家康に接近し、幕府に仕える

慶長10年23歳の時、惺窩の推薦により家康に接近し、幕府に仕えました。

惺窩が近世儒学の先駆をつとめながら生涯市井の学者としてとどまったのに対し、羅山は良くもわるくも民間の学問を幕府の官学に転化させ、幕府官学の開祖となりました。

家康死後は、徳川秀忠秀忠徳川家光家光・家光・家綱まで四代の歴任、侍講を勤めるとともに古書の調査と収集、武家諸法度十九条を選定、朝鮮通信使の応接、寺社関係の裁判事務など、学問や儀礼に関係ある公務に従事。

正保元年には改元の奏進(天子に申し上げること)が命ぜられ、以後、林家が改元のことを当たる先例を開きました。

5.運命の明暦ファイヤー

明暦三年、江戸に大火が起こって、羅山は幕府から賜った銅瓦の書庫を蔵書とともに焼失してしまいました。落胆した羅山は、火災の翌日に発病し、3日後に病死しました。数えで享年75[註1]。

羅山の思想

幕府の学者として成功を収めた羅山。しかし同じ江戸初期の儒学者の中江藤樹(とうじゅ)や熊沢蕃山(ばんざん)と比べて思想的に深くもなく、江戸の思想界に影響を与えたというわけでもありませんでした。

近代になり、幕府の学者・羅山の不人気は確定。現代でも、時代劇に出てくる羅山は必ずといっていい程、ニヒルに描かれています。さて、その思想とはどのようなものだったのでしょうか?

羅山は、儒教以外の思想に寛容だった師匠の惺窩とは違い、若い時から露骨に仏教排撃の議論を振り回していました。

羅山のねらいは、儒教の精神的指導の確立にあったので、排撃されるのは仏教のみだけでなく老荘の学もキリシタンの学もともに打倒されなければなりませんでした。

しかし神道だけは例外で、仏教哲学を全然排除して儒教を神道と結びつけて同一性を主張してしまうという羅山の態度は、和辻哲郎が指摘するように、日本における儒教と神道との関係を伝統的に決定したといってもよいでしょう[註2]。つまり子安宣邦が言うところの本居宣長問題[註3]の萌芽を既にここに見出すこともできます。

日本は朱子学、天道思想、神君思想、仏教の様々な思想が重層し、混在しており、ただ一つの思想に時代や体制や階級・身分のイデオロギーを求めることは適当でない[註4]、と考える方は羅山の思想は到底受け入れがたいと思います。

また、羅山のような当時の儒学者は「史官」や「芸者」のようであり、学問が「産業」になったと、藤樹や蕃山は嘆きました。

しかし、"中世までには、朝廷の博士家と禅林の内部だけに学問が独占されていたのが、今や解放されて、望み次第学問する機会が開かれ、学問を「産業」とすることができる世の中になったことは、日本文化の大躍進でなくて何であろう。"

と羅山を評した伊東多三郎[註5]の視点も一考に値します。58歳の時でも一年内に七百冊を閲読した学問に対する羅山の姿勢を鑑みれば、ただの俗物と単純に切り捨てることが難しいかもしれません。

林羅山相関図

先生

藤原惺窩

主君

徳川幕府初代将軍:徳川家康徳川家康

二代将軍:徳川秀忠徳川秀忠/三代将軍:徳川家光徳川家光、四代将軍・家綱まで羅山は仕えました。

同僚

南光坊天海金地院崇伝板倉勝重本多正信

  

林羅山関連リンク

徳川家康家臣団、外様大名

補註

註1:国史大辞典編集委員会『国史大辞典〈第11巻〉 』(吉川弘文館、1990年)

註2:和辻哲郎『日本倫理思想史(三) (岩波文庫) 』(岩波書店、2011年)

註3:子安宣邦『「宣長問題」とは何か (ちくま学芸文庫) 』(筑摩書房、2000年)

註4:石田一良、金谷治『日本思想体系23 藤原惺窩・林羅山』(岩波書店、1975年)より石田一良『前期幕藩体制のイデオロギーと朱子学派の思想』

註5:前掲書より日本思想体系月報49・伊東多三郎『羅山と物読み坊主』