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戦国人物解説

お初(常高院)/おはつ(じょうこういん)三姉妹真ん中、東西を貫く

目次

プロフィール詳細相関図関連記事

プロフィール

初
Ohatsu

近江国(滋賀県)出身。浅井三姉妹の次女。

旦那は近江(滋賀県)大津城主・京極高次で、二人の間に子はない。

姉の淀殿秀吉の側室になり、妹のお江徳川秀忠の正室。

大坂の陣では西軍代表として徳川軍との交渉を担当。大坂城内で自害しようとする姉・淀殿を説得を試みるが――

享年64?(1570?-1633)。同世代は佐竹義宣宇喜多秀家

詳細

1.京極高次って誰

お初は、浅井長政浅井長政織田信長織田信長の妹・お市の方お市の方の子。

天正一一年(1583)賤ヶ岳の戦い。養父・柴田勝家柴田勝家が、豊臣秀吉羽柴秀吉に敗れてお市の方と共に自害。お初(一四歳?)は、姉の淀殿茶々と妹の崇源院お江と共に秀吉に保護されて大坂城で暮らしました。

そののち秀吉の勧めで、秀吉の側室・松の丸殿(竜子)の兄で、名門だけど石高的にパッとしない近江(滋賀県)大津城主の京極高次京極高次と結婚。高次とお初の間には生涯子供ができませんでした。

ところで高次の父は京極高吉(たかよし)、母は浅井長政の祖父・亮政(すけまさ)あるいは父・久政(ひさまさ)の娘。高次の母が久政の娘の場合、松の丸殿・高次と浅井三姉妹はいとこになります。

慶長五年(1600)関ヶ原の戦い。徳川家康徳川家康方に属した高次は、大津城で西軍の毛利元康(毛利元就元就八男)の軍を迎え撃ちます。しかし毛利軍の大砲は天守閣に命中し、高次はやむなく開城。

それは奇しくも現地関ヶ原の戦い当日の朝でした。毛利軍に降参した高次でしたが、毛利軍を足止めにした功績で高次は若狭国(福井県)を与えられました。高次は関ヶ原の戦いの九年後(1609)に死去。お初(四〇歳?)は常高院と号し、京極家は高次の側室の子・忠高が継ぎました。

2.交渉人としての活躍

関ヶ原で勝利した家康の次の目標は、姉・茶々と豊臣秀頼豊臣秀頼預かる大坂城。然しながら同一九年(1614)大坂冬の陣にて真田幸村真田幸村などの奮闘もあって、大坂城は容易に落ちません。

家康は交渉に踏み切りました。忠高は徳川軍にありましたが、常高院は豊臣方の代表として家康側室・阿茶局(あちゃのつぼね)と交渉を進め、和睦を成立させました。

しかし再び徳川と豊臣とが争うこととなり、夏の陣で豊臣方は敗れました。常高院は大坂城内で自害しようとする姉・淀殿(茶々)を説得。しかし淀殿は息子秀頼と共に自害し、ついに落城しました。

大坂の陣の後、若狭国小浜に常高寺を建立。晩年は京極家の江戸屋敷で暮らし、浅井三姉妹の次女として波乱な生涯を閉じました。享年六四

お初(常高院)相関図

親類縁者

京極氏

浅井氏

織田氏

ライバル

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